自分と他人とを分けない愛の心を持った人間になることは理想なのですが、そうはいっても日常では常に自分と他人との分離をいつの間にか意識してしまっています。

それは私たちがいつもエゴ意識と共に居て、そのポジションから現象を見て、考えてしまっているからです。

例えば、いつもある筈の在るべき所から「自分の物」がなくなって消えていたとき、「あれ、一体誰が持っていったのだ!」と思うことは私にもよくあります。
しかし自分でどこかに移動しておいて、それを忘れてしまったことが大半なのです。
だから私の心は「常に平和」という訳にはいかないのです。

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こういうときにこそ、全体の背景というところから自分を含めて「無くなった物の分析」をしたいものです。
私も、所詮は「被害者意識」の要素を常に含んだエゴ意識とは無関係でいることなどできない人間です。

被害者意識は自己顕示欲の塊です。被害者意識は臆病者でおしゃべりです。被害者意識の高い人ほど、いつも自分の存在価値、アイデンティティを堅持していないと安心できません。
だから自分が被害者であることを吹聴して止みません。人の悪口を言いだしたら止まらず、畳みかけて話します。

多かれ少なかれ誰であれ、そういう個我の私が、必ず自分の中に居ます。その個我の私を常にじっと観察する姿勢が今、とても大切なのです。
じっと観察するということは集中力です。集中は考えている自分ではなくて観ている自分になるということです。

花や木などの物の一点を目でじっくりと見詰めるという行為が無思考の瞬間を作っているということは何度か書いてきましたが、自分自身から離れて全体意識から自分を見詰めるということにも無思考の瞬間を持つことと繋がります。
また自分の心の分析、思考の分析にも、無思考の瞬間を持つことは大切なのです。
考えているだけでは個我としか繋がらないからです。

例えばある人から自分が被害を被って相手と裁判で争う羽目になったとしましょう。
まずその瞬間から弁護士共々真実を見詰めるという目が消え失せます。
被告側、被害者側ともにそうなります。所詮、司法とはそういうもので、真実を観る目など初めから無いのです。
闘争モード一色です。どうしたら勝利するか。
先週まで行なわれていたオリンピックではないですが、勝利(勝訴)することだけに意識は集中し、意識は思考に奪われます。

その状態で  ―  心の分析をしない状態で勝訴すると、思考状態の延長となって学びはまったく訪れません。
自分が被害を被らなければいけなかった理由という自分側の原因という大切なものを置き忘れます。

何しろ目的は勝利だけですから、現実の流れは勝利に沸き、ザマアみろと思い、回りからも勝利を祝福され、美酒に酔って抱き合って、被害者となった原因に意識は行かず成長なく事は終わります。

勝利の瞬間に目的は達成されたのです。

それはエゴに占領され続けたがために思考し続けた意識環境です。
エゴに占領されないためには、無思考という聖域の瞬間を常に思考の中に送り込み、エゴを時々断ち切らなければなりません。

勝訴した人は、嘗て被害に遭った悲しみを勝利の美酒で埋めてしまいました。
被害に遭った悲しみの原因は100%自分にあったのに、気づきを放棄しました。
エゴ意識は決して真実を観たいと思いません。
エゴ意識は分裂が好きなので思考の世界に嵌まらせて、思考を超えたところで起きている魂の共同創造の世界を無視します。
だからまた、同じ経験をしなければなりません。気づくまで何度も何度も。

これは病気も同じなのです。
だから気づきが大切なのです。気づくと問題も病も半分終わるのです。

目的は勝利ではなくて気づきだからです。

だから分析が大切なのです。

分析する時は理性的であり、理性は全体意識と繋がります。
全体の中にいる本当の自分のポジションに居ると気づきは起こるのです。そこは無思考の訪れる空間となっているからです。

被害に遭った悲しみの原因は100%自分にあります。
それは自分の言動。
もっと遡れば、自分の思考。思考にはまっている自分。
もっと言えば、本当の自分のいない次元の思考。

無の瞬間のない思考、思考だけが連続している自分です。

脳が作りだしている思考の中に、本当の自分がいる無思考の瞬間を作り出し、軌道を正しき方向に修正しなければなりません。

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