オリンピック関連の記事から入って、ちょっと横道にずれますが、関連して日本文化に触れて2日に亘って書く予定です。
私はオリンピックには殆ど興味がありませんので自分からは話題にしませんが、平日会社に居てもオリンピックを話題にする人は私の周りでは全くいませんです。
聞き耳を立てている訳ではありませんが、オリンピックの話題をしている人を全く見かけません。
日本人の活躍が低調ということもありましょうか。
朝のテレビ番組では必ず大きく時間を割いて取り上げていますが、そんな訳で何か違和感を感じます。興味のないものにとってはテレビ報道の過熱は迷惑でしょう。
多少横道に外れますが、マスコミということで番組編成が変わるときにバカ騒ぎしている特番のオンパレードというのもテレビという媒体の質の低さを感じます。
マスコミの体たらくについては、トーマス・D・ラッキー博士の「放射能を怖がるな」の翻訳の一部を担当されたという方が先日施術に来てくれまして、いろいろとお話しした時に言われていましたが、現在、低放射線量をまったく肯定しないマスコミによって福島はじめ多くの日本人が、経済的にも精神的にも多大な被害を強制的にかけられていることに甚だ憤慨していました。
このマスゴミ評には 私もまったく同感ですが、
日本人一人ひとりが正しく神様と繋がっていないということが、そもそもの問題点なのです(本来日本民族は世界で最も神様と繋がれる民族なのに)。
確かにマスコミはどれほどバカかと思いますが、報道に愚直に民衆が騙されているということが本当は問題の本質なのです。
名前をいちいち挙げませんが、これは政治的な考え方に置いて私が賛同する知識人の殆ども同じです。
放射線の真実に殆ど目を向けません。何かに取り憑かれたかのように。
彼らは多面においてマスコミの罪を嘆きますが、こと放射線の有効性/危険性に於いてはマスコミと同じように愚直な罪作りをしています。
今日はオリンピックの最中ということもあり、スポーツ競技に関連して日本人の特異性について触れてみます。
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◆本来の日本人の資質
日本古来のスポーツや芸術といった文化を具体的に見ていくと、そこには更に日本人の隣人との一体感、神との一体感をうかがい知ることができます。
今年はオリンピックの年でもありますが、日本から生まれたオリンピック種目は何がありますでしょうか。柔道ぐらいではないでしょうか。
考えて見ますと、古来スポーツ全般を見てみても、スポーツそれ自体が日本には余り存在していません。相撲、弓道、剣道ぐらいしか思い浮かびません。
柔道や弓道は「道」とあるように武術ですし、相撲の原点も五穀豊穣を願う儀式でした。
サッカー、バレーボール、ホッケー、野球のようなチームワークを必要とするスポーツは皆無です。
すべてが個人競技です。
音楽はどうでしょうか。
日本の楽器は三味線、太鼓,琴、笛、などの楽器が多く、演奏形態も独奏が主体で、おおよそ他とのアンサンブルを図るということをしません。
太鼓ひとつ取ってみても西洋がリズムを取るものであるのに対し、日本の太鼓は独奏用となることが多いのです。
西洋ではデュエットからオーケストラまで、調和を演出する形態が豊富にあります。
舞踊を見てみましょう。西洋のバレーはソロもありますが、基本は集団で踊ります。
逆に日本舞踊は集団で踊るということをしません。ソロが主体です。
このように、日本の芸術やスポーツ文化は、西洋のものと比べ協調性を必要としていないのです。
なぜでしょうか。
ひとつは、日本人は無意識に一人ひとりが神と直接繋がる尖兵となる民族であるということ。
ひとつは、日本は元々和の国だから西洋と比べチームワーク(和)を学ぶ必要性がさほどないということ。
調和の必要がない。だから団体スポーツも必要ない。
それなのに西洋文化を学ぶからおかしくなるのです。
日本人ほど、一人ひとりが神と直接繋がって神の子として本来行動できる民族はいないのです。
日本でもスポーツというと野球とかサッカーとかのチームプレイが主体になっています。
しかし日本にはそもそもスポーツ自体がほとんどありませんでした。
強いて言えば羽子板や隠れん坊ぐらいで、どれも競争ではなくて至極遊び心の延長線に留まります。
日本人というと「みんな一緒」という団体のイメージがありますが、裏にはこういう側面があります。
裏とは言え、実はこれが神様と直接繋がれるかということではとても意味のあることなのです。
日本の文化の特質は、個の調和から全体の調和への流れにあるのです。
いろいろな私
「私」という言い方は多くの国では一つの単語しか存在していません。
しかし日本語では「わたし」「わたくし」「あたし」「僕」「俺」「自分」などが実際に日常的に使われています。
類似語辞書を引いてみて出てきた語を並べれば、「あたい」「わたい」「おいら」「我」「我輩」「わし」「わて」「こちとら」「それがし」「おら」・・・・
へりくだって「小生」「手前」「拙者」などなど、何と37の言い方が記されていました(因みに私の和英辞典で「私」を調べたら「I」一語のみでした)。
この中には単に俗語、方言というようなマイナーな語彙ではなく、平易な日常語として社会に定着しているものが多くあり、文章として使われるものとなると可なりの数になります。
つまり日本では「私」にしてもいろいろな私がいて、その時々の背景や成長過程によって立場を柔軟に変えているということが出来るでしょう。
日本人は役割と自分とを同一視して物事に当たるということを無意識にしていると思われます。先ず都道府県名から始まる住所と名前の書き方一つとってみてもそれは伺えます。名前も家(苗字)を優先して名が後です。
しかしそれは決して強制的なもの・・・秩序ありき・・・ではなく、個から出た日本人の自由性なのです。
欧米人は先ず自分を中心においてから思考が始まります。
その上で自分が何をしたいかを発見して進めて行くという傾向があります。
日本人は自分を観ながら同時に、全体、自分の背景を観ようととします。
この「同時に」こそが物凄く大切なのです。
これも何もしないことをする、何も考えないことをする、ということに繋がります。
つづく
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