今日の朝のワイドショーで、10月7日公開の「マーダーボール」というマイナー映画を紹介していました。
この競技は頑丈な車椅子に乗った障害者が1チーム4人制で行うラグビーで、正式名を"Quad Rugby"(クアド・ラグビー)というのだそうです。
クアドとは "quadriplegia" 、つまり「四肢麻痺」または「頸髄(けいずい)損傷」の略です。
それで障害者の行うゲームであっても、とても過激で危険です。選手のほとんどは車がぶつかる衝撃などで首の骨を折ったりして、首の中に鉄のネジのような物を入れているとのことでした。
そんな過激なゲームということで、"Murderball"(殺人球技)とも呼ばれており、一部では熱烈なファンがいるようです。
選手に刺青をしている人が多いので何となく雰囲気も殺伐としています。
さて、今日このゲームの番組を見ていて、ある日本の選手が番組のインタビューに答えて、日本の障害者ゲームを扱ったドキュメンタリー映像は必ずと言っていいほど「涙」がつき物だが、(外国or米国)ではこんなもの(涙を売りにしない)ですよ、というようなことを言っていました。
それで浮かんだイメージがありました。
「障害者映画は障害者に見せるものではなくて健常者に見せるために作られているものだから、お涙ものとして作られるのは当然である。しかし健常者とハンディキャッパーの立場を入れ替えて見ると、私たち健常者たちこそハンディキャッパートして(障害に立ち向かえないものとして)五体満足に生まれさせていただいていのだ」
という印象が浮かんできたのでした。
つまり見方を変えれば、
私たちこそハンディキャッパーなのだということもできる、ということです。