「額田女王」井上靖(新潮文庫・1972年)
人事が天下を転覆する。それは企業や自治体、各種団体に至るまで泰西の歴史上すべからく行われてきたことだが、こと皇位や将軍職の継承問題では血肉を争う戦いとなる。天智天皇となった中大兄皇子が大化の改新を共に成功させた実弟の大海人皇子を排して、第一子の大友皇子を太政大臣の地位に就けたことが後の壬申の乱の遠因になったように。
しかし、歴史小説の醍醐味は戦いのスペクタクルよりも、その背景にある人々の心の動き様である。それが物語を豊かにする。本書の井上靖の長編小説「額田女王」は、大化の改新から蝦夷征伐と白村江の戦いを経て壬申の乱に至るまでを時代背景としているが、タイトルのあるように、主役はその歴史的スペクタクルの影にいる宮廷の絶世の美女額田女王である。彼女は神の声を聞く絶世の美女で、穢れを寄せ付けてはならない女でなければならないと考え、孝徳天皇の子・有間皇子と中大兄皇子と大海人皇子という三人の男性への恋情に思い悩む。思い思われ、寄せては返す波のように揺れる恋心は幾多の歌に託す。
愛の物語を描いた歴史小説であり、まさしく国家誕生の呻吟が聞こえてくる全編圧巻のストーリーが楽しめる大傑作といえるだろう。
