日本では、年の終わりになると、
ベートーベンの《第九》が
どこからともなく流れはじめます。
 

祝祭なのか、祈りなのか、
あるいは単なる慣例なのか…。

けれど大晦日の第九は、
ただ盛り上がるための音楽というより、
『一年を閉じるための「場」』
のように感じられます。
 

ベートーベンの第九・第四楽章の合唱は、
「歓喜の歌」と訳されてきました。

元々の歌詞は当然好きなのですが、
思考が深まり、
物事の構造が見えるようになるにつれ、

この詩が語っているものは、
もっと別のところに
あるようにも感じられました。

 

一年が終わり、
世界が一度静まるこの時期に
深い沈黙に入ると、
そこに立ち上がってくるのは、
叫ぶ歓喜ではなく、
『共有されるよろこびと、

 すでに満ちている至福』
の感覚だと気づいたのです。
 

人が人(=霊止)として、
再び世界とつながる瞬間。
分けられていたものが溶けて和らぎ、
同じ場に立っていることを思い出す、その感覚。
 

そこで今回は、最初の記事にも相応しいので、
ベートーベン第九・第四楽章合唱の歌詞を、
「歓喜」ではなく、
『よろこびと至福』として、
深い沈黙から
インスピレーションを受け取った歌詞として
書いてみました。

☆☆☆よろこびと至福 ― 第九、年の終わりに☆☆☆

 

よろこびよ
それは 名前のない 輝き
どこから 来たのかも
誰の ものかも わからない
けれど
確かに、ここにある

 

わたしたちは
知らない うちに
その 輝きに 触れている
離れていた ものが
ふいに つながる
その 瞬間に

 

分けられていた ものが
理由もなく 繋がる とき
人間は 人(=霊止)として
となりに 立てる

 

引き裂かれていた ものが
再び 結ばれる とき
境目は 消え
同じ 場に いることを 思い出す

 

手を 繋ぎあい
言葉より 先に
意味より 先に

 

よろこびが そこに あり
至福が そっと 立ちあらわれる

 

空の 向こうに
答えを 探さない
星の 向こうに
裁きを 求めない

 

ただ
深い 静けさが あり
その 中に
わたしたちは 立っている

 

進もう
英雄で なくて いい
勝者で なくて いい

転びながらでも
迷いながらでも
それぞれの 速さで
静かなる 至福の ほうへ

 

立ち止まる ときは
至福の 側で

 

何かを 得なくても
何かに なれなくても
すでに 満ちている ことに
気づく、 その 場所へ

 

至福のよろこびは
特別な 人の ためだけでは ない
選ばれた 誰かの ものでも ない

 

善いとか
悪いとか
その 前に
生きている すべてへ

 

地面から
この 地球に 触れる ように
呼ばれなくても
湧きあがる

 

ただ そこに あり
手を 取りあい
限りある 命にも
確かな 手応えを 残す

 

すべてが 友となり
よろこびは 広がり
至福は
静かに 深まっていく

 

星は めぐり
迷わず 進む
それは 命令では なく
約束でも なく
ただの 流れ

 

わたしたちも
それぞれの 速さで
その 流れに
参加している

 

手を 取りあい
説明は いらない

よろこびと 至福へ
還っていく

  • 原詩:Friedrich Schiller

  • 音楽:Ludwig van Beethoven

  • 日本語詩:現代語による自由詩的翻

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
 

年が終わるとき、
何かを成し遂げていなくてもいい。
答えが見つかっていなくてもいい。

 

よろこびは、分かち合われ、
至福は、すでに満ちていることに気づく。
それだけで、流れは静かに次へと移っていく。

 

この歌が、
新しい年の始まりを告げるものではなく、
静かに年を越えていく時間に
寄り添う響きでありますように。

 


参考までに、この動画を貼っておきます。
数ある第九の演奏の中から、
 カール・ベーム最晩年の第九を選びました。
 

この演奏には、 

もう何かを証明しようとする気配がありません。 

何かを足そうともせず、
世界を裁くこともなく、
ただ肯定だけが静かに残っている。
その気配が、
この演奏には残っているように思われました。


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