人は、意味を探す生きものです。

 

起きた出来事に理由を見つけたり、
自分の状態を言葉で説明しようとしたり。

 

それは特別なことではありません。
不安なとき、先が見えないとき、
人は自然と「意味」という枠組みを使います。

 

意味があれば、
起きたことを理解できる気がする。
理由があれば、
今の状態を受け止められる気がする。

 

意味を探すこと自体は、
人が生き延びるための
とても健全な知性の働きです。

 

 

 

 

けれど、ときどき
「意味を探すこと」そのものが
止まらなくなることがあります。

 

何が起きても、
そこに理由を見つけようとしてしまう。

 

休んでいる時間に、
「何のための休みなのか」を
考えてしまう。

 

何も起きなかった一日に、
「この時間に意味はあったのか」と
問いを向けてしまう。

 

意味が見つからないと、
不安になる。
納得できない。
そのままでは落ち着かない。

 

こうして、
意味は「理解のための道具」から、
「安心を保つための装置」へと
少しずつ役割を変えていきます。

 

 

 

 

意味があると、
人は耐えられます。

 

理由があると、
我慢できます。

 

目的があると、
踏ん張ることができます。

 

そのため、
意味は知らないうちに
「状況を理解するため」ではなく、
「不安を制御するため」に
使われるようになることがあります。

 

そうなると、
意味が見つからない時間は、
ただの空白ではなく、
不安そのものになります。

 

何もしていない時間、
成果のない時間、
説明できない気分の時間。

 

それらは、
「まだ足りない状態」
「途中で止まっている状態」
のように感じられてしまう。

 

 

 

 

でも、
人生には
意味を与えなくても成立している時間が
確かにあります。

 

目的のない散歩。
理由のない疲れ。
役に立たない休息。

 

何も学ばなかった一日や、
何も進まなかった時間。

 

そうした時間の中でも、
身体は回復し、
感覚は整い、
人はちゃんと生きています。

 

意味がなくても、
その時間が失敗になるわけではありません。
説明できなくても、
何かが壊れているわけでもありません。

 

 

 

 

意味を探すことも、
探しすぎてしまうことも、
どちらも人間的な反応です。

 

意味が必要なときもあれば、
意味が邪魔になるときもあります。

 

どちらが正しいか、という話ではなく、
今の自分にとって、
どこまで意味を必要としているのか。

 

それを判断するのは、
それぞれ自身です。

 

ここでは、
意味を探すことをやめさせたり、
別の答えを与えたりはしません。

 

ただ、
意味を与えなくても成立している時間がある、
という事実を、
静かに置いておくだけです。

 

 

<補足>

この文章は、
意味を手放すためのものでも、
考え方を変えるためのものでもありません。

 

「意味を探してしまう自分」を
評価したり、修正したりせず、
そういう働きがある、という視点を
そっと並べただけです。

 

それ以上のことは、
何も起こらなくて構いません。