人は、ときどき
「何者かでいなければならない」
という感覚を抱えます。
役割を持っていること。
説明できる立場があること。
自分が何者で、何をしている人なのかを
言葉にできること。
それは、社会の中で生きるうえでは
とても自然な感覚です。
安心や安定につながることもあります。
けれど、その感覚が
少しずつ重くなることがあります。
何もしていない時間に、
自分が空っぽになったように感じたり。
肩書きや役割から離れると、
価値まで失ったような気がしたり。
「今の自分は、何者なのか」
という問いが、
休んでいるときや、立ち止まっているときに
何度も浮かんでくる。
何者かでいようとする感覚は、
いつのまにか
自分を支えるものから、
自分を監視するものに変わっていくことがあります。
役割を果たしているときは、
安心できる。
期待に応えているときは、
居場所があるように感じる。
そのため、
何者でもない状態や、
説明できない状態が、
不安として立ち上がってくる。
でも、その不安は、
怠けているからでも、
努力が足りないからでもありません。
ただ、
「何者かであること」に
長く慣れすぎただけ、ということもあります。
人生には、
何者でもない時間が確かにあります。
役割が薄れた時間。
説明しなくていい時間。
成果や意味を持たない時間。
そうした時間は、
評価しにくく、
物語にもなりにくい。
けれど、
それでも人は生きています。
何者かでいなくても、
呼吸は続き、
感覚は働き、
日常は進んでいます。
何者かでいようとすることも、
そこから疲れてしまうことも、
どちらも自然な反応です。
何者かであることが
必要な時期もあれば、
少し離れたほうが楽な時期もあります。
どちらが正しいか、
どちらを選ぶべきか、
ここでは決めません。
ただ、
何者かでいない時間が
「失敗」や「停滞」ではない、
という見方を
そっと置いておくだけです。
<補足>
この文章は、
「何者かでいなくていい」と
言いたいわけでも、
「役割を手放そう」と
勧めたいわけでもありません。
何者かでいようとする感覚が、
ときどき疲れを生む、
という構造について
言葉を並べただけです。
それ以上のことは、
起きなくて構いません。