人間、生きていれば、日々いろいろなことが起きる。

良いことばかりではない。

 

 

不快なこと。
理不尽なこと。
悲劇的なこと。
想定外のこと。
できれば体験したくないこと。

 

 

そういうことは、容赦なく起きる。

 

 

そしてそのたびに、人はドラマに飲み込まれる。
出来事に飲み込まれ、感情に飲み込まれ、物語に飲み込まれる。

 

 

怒り、不安、悲しみ、恐れ。
それらに巻き込まれ、振り回され、我を失う。

 

 

あるいは、何とか状況を変えようと慌てて動く。
しかし、未熟な意識のまま動けば、事態をさらに悪化させることも多い。

 

 

人間は安定を望む。
安心を望む。
問題のない人生を望む。

けれども、それ自体が、ある意味で幻想でもある。

 

 

たとえ親ガチャに当たろうが、
現代的な意味での成功者になろうが、
金があろうが、地位があろうが、権力があろうが、

生まれてから死ぬまで、
何事もなく、心乱されることもなく、
ただ安穏と人生を終えるなど、ほぼない。

そんなものはない。

 

 

にもかかわらず、多くの人は
「何も起きない人生」
「自分だけは壊されない人生」
「自分の思い通りに運ぶ人生」
を、どこかでまだ望んでいる。

 

 

だから、何かが起きるたびに騒ぐ。
傷ついた、自分ばかり損をしている、不当だ、不公平だ、と。

 

 

けれども、厳しいことを言えば、
そこで騒いでいるのは、出来事そのものではない。
自分の観念である。
自分の執着である。
自分が握りしめていた価値観である。

 

 

縁あってわたしのところへ来る人々も、ほぼ例外なくこう言う。

「助けて欲しい」
「この状況を望む形に変えて欲しい」

 

 

その気持ちはわかる。
苦しい時、人は助けを求める。
それ自体は自然なことだ。

 

 

けれども、準備ができていない人には言わないけれど、
無限の存在の視座から見れば、そういう状況は恩寵でもある。

 

 

自分を縛っていた古い価値観を壊すための。
偽の自己像を剥がすための。
執着と幻想を露わにするための。

つまり、破壊ではなく、更新のために起きている。

 

 

もちろん、その渦中にいる本人からすれば、そんなことは受け入れ難いだろう。

「こんな酷い状況なのに、何を言っているのか」
「苦しんでいる人をバカにしているのか」

そう怒る人もいるはずだ。

 

 

だが、それは無理もない。
なぜなら、まだ知らないからだ。

 

 

人生とは何か。
この世はどういう構造なのか。
自分とは何なのか。
他者とは何なのか。
時間とは何なのか。
神とは何なのか。
真の宇宙の法則とは何なのか。
絶対に揺るがない至福とは何なのか。

 

 

それを知らないまま、
目の前の一場面だけを「現実のすべて」だと思い込み、
一時的な現象を絶対視し、
感情の波に自己同一化している。

 

 

だから振り回される。
だから苦しい。
だから、何度でも同じところで倒れる。

 

 

無限の存在、あるいは完全至福を会得している者から見れば、
日常で起きる多くのことなど、
指先についた埃を、ふっと払う程度のことに過ぎない。

 

 

これは、冷たくなれという意味ではない。
傷つくなという意味でもない。
怒るな、悲しむな、という意味でもない。

 

 

そうではない。

怒りが湧いてもいい。
悲しみが湧いてもいい。
痛みがあってもいい。
人間として反応が起きること自体は、自然なことだから。

 

 

しかし問題は、その反応に呑まれきることだ。
その感情を「私そのもの」にしてしまうことだ。

 

 

不安が湧いただけなのに、
自分は不安そのものになってしまう。
怒りが湧いただけなのに、
自分は怒りそのものになってしまう。
ひとつの出来事が起きただけなのに、
人生そのものが終わったかのように錯覚する。

 

 

それは、真実ではない。
単に、意識の位置が低いだけである。

 

 

本当の問題は、出来事ではない。
その出来事によって、自分が、自分の存在の本質を見失うことだ。

 

 

だから必要なのは、
何も起きない人生を目指すことではない。

 

 

何が起きても、
本来の自分へ戻れること。

 

 

揺れないことではない。
揺れても戻れること。
崩れないことではない。
崩れても、本質を思い出せること。

そこにしか、真の力はない。

 

 

ここを履き違えている人は多い。
至福とは、願いが叶い続けることではない。
気分良くいられることでもない。
都合の悪い出来事が起きないことでもない。

 

 

そんなものは、ただの条件付き幸福である。
条件が崩れれば、簡単に消える。

 

 

真の至福とは、
どんな現象が起きても、その奥にある本質は傷ついていないと知っていること。
そして、そこへ何度でも還れることだ。

 

 

現実世界では、これからもいろいろ起きるだろう。
人間関係の軋みもある。
裏切りのように感じることもある。
思い通りにいかないこともある。
失うこともある。
老いも、病も、別れもある。

 

 

それでも、そのたびに外側の現象へ自分の中心を明け渡していたら、
人生は永遠に現象という三次元の奴隷のままだ。

 

 

問うべきは、
「どうすればこの出来事を消せるか」
だけではない。

 

 

むしろ、

今、何が反応しているのか。
何を失うのが怖いのか。
どんな観念が傷ついているのか。
どんな自己像を守ろうとしているのか。
なぜ、それが“自分”だと思い込んでいるのか。

そこを見よ、ということだ。

 

 

そこを見ずに、
ただ外側だけをいじり続けても、
舞台装置が少し変わるだけで、

苦しみの構造は温存されたままになる。

 

 

だから、人生で起きることは、
あなたをただ苦しめるために起きているのではない。

 

 

あなたが握りしめてきた偽物の自己像を終わらせるために起きている。
もっと本質へ戻るために起きている。
浅い幸福ではなく、揺るがぬ至福を知るために起きている。

 

 

何が起きても揺るがぬ至福へ。

それは、遠い理想でも、綺麗事でもない。
現実逃避でもない。
むしろ逆だ。

 

 

幻想を剥がされてもなお、
自分の本質に留まれるか。
感情の嵐の中でも、
その奥にある静寂を思い出せるか。

試されているのは、いつもそこだ。

 

 

現象は揺れる。
感情も揺れる。
人生の波は止まらない。

だが、そのすべてを見ている“在る”は揺れていない。

 

 

そこへ戻る。
何度でも戻る。
何度崩れても、戻る。

 

 

それができるようになった時、
人はようやく、出来事に支配される人生から降りる。

 

 

そして初めて知る。
至福とは、与えられるものではなかったことを。
勝ち取るものでもなかったことを。
もともと在ったものを、思い出すだけだったことを。