お立ち寄りありがとうございます。

今日は
自分の整理の為
書きました。





今日、祖母が亡くなりました。

テレビを見ているときに
急にガクリとなり
そのまま
旅立ったそうです。

天寿を全うした
羨ましい
私の理想の旅立ち方をしていきました。


私は初孫であった為
蝶よ花よと
それは可愛がられて育ったという
その感覚が
私自身にもあります。

祖父母は
開拓者として
牧場を営んでいました。
祖父は牛3頭を本家からもらい
あの地を開墾し
地元の名士と言われるほどになりました。
母は
5人兄弟の第一子長女として生まれ
小学校に上がる前から開墾を手伝っていたそうです。雑木林を切り開き切り株や石を一つ一つ取り除き、畑にしていきました。
そんな話を私は物心つく前から
母や祖父母から聞き育ちました。

祖父はものすごい発明家でもあり
今やどの牧場でもある、ある建物を発明しました。
当時様々な方面から特許を取るようにと
助言をいただいたそうですが
そんなことで金儲けをしない
誰もが真似ができ
みんなが便利になるほうがいい

そう言って特許は取らなかったそうです。
開拓地区に電気を通したのも
祖父だったそうです。


祖母は小さい時に実母をなくし
後妻さんに育てられたそうです。
実の母ではない遠慮があり
甘えたいときに甘えられなかった
寂しくて悲しくて辛かった話を
涙を流しながら一緒におしゃべりしたことが
今も思い出されます。

北海道は150年の歴史しかありません。
たった7、80年前の話ですが
今とはあまりにかけ離れた世界の話だと
改めて感じます。
祖父は戦争にも行き生還した1人でもあり
戦争の話も私は聞いて育ちました。

普段無口な祖父。
ちょっとこわい。でも
よく2人で秘密のお出かけをしました。
そんな尊敬する祖父が
母の事を全く褒めない、認めない
幼心にものすごい違和感がありました。

私が幼い頃から母は祖父母の牧場のお手伝いに行っていましたので、
私も小さな頃から牛舎のお手伝い、畑のお手伝い、にわとりのお世話と大忙しでした笑



4時に祖母と牛舎に向かうときに見た夜空。(私はかなりの確率で1人でお泊りしていた。そのくらいおばあちゃんっ子だった)



まだ星が見えて

朝なのか夜なのか区別がつかない世界から

キラキラとオレンジ色に輝き変わっていく美しさが忘れられない。




そうか




だから私はリゾート地ばかりに行っていたのか。20代は暇さえあればアジアの島にばかり行っていたが、

夜と朝が移り変わっていく様子を見るのがたまらなく幸せだった。

その原体験は祖母であったのか!



今の今まで気づかなかった。





 祖母が寝るときに背中をかいてくれるのが気持ちよくて大好きだった。

一緒に畑仕事して雑草とったり、お野菜とったり、ゲンゴロウやあめんぼを教えてくれたのも 

祖母だった。

貝殻砕いてにわとりの餌にまぜて食べさせたり、

仔牛にミルクをあげる時のコツを教えてくれたり、

祖母のつくるポテトサラダと牛乳豆腐に紫蘇の味噌巻きがそれはそれは美味しくて、未だに越えるものを食べた事がない。

おはぎも美味しかった。

餅つきも楽しかった。



祖母がしてくれる

祖母の子供の時の話が好きだった。


まこちゃん、まこちゃん

かわいいね。

まこは特別。

立派な人になれる。

っていつも言ってくれていた。

いつも笑顔だった。


大人になってからも変わらず

いつも あの笑顔で

まこちゃん、まこちゃん

会いたかったよ

って。





祖母は祖父が亡くなったあとも

一人で大きな家に住んでいた。

足が不自由になっても

なかなか施設には入らず

健康管理には気をつけていたので

どさんこワイドやNHKで仕入れた健康ネタをよく教えてくれた。


そんな祖母も数年前から施設に入っていた。



妹がちょうど一週間前に帰省した際

祖母に会ってきたそうだ。

アプリを使っての写真で

祖母の頭からウサギの耳がでてる。

そんなかわいい写真が

最後の写真となった。



私は全然、全く

逢いに行けなかった。

年々細くはなっていくけど

頭は回るし、おしゃべりも上手。

まだまだ全然元気だろうと信じて疑ってなかった。

祖母なら100才まで余裕だろうと。



あまりに

あまりに突然だった。



人の一生はいつ終わりがくるかわからない。




わかっているはずなのに




わかっていない自分にも泣けてくる。





明後日はしっかりお別れしてこよう。



大好きなおばあちゃん。

祖母とどんな思い出があったのか

祖父はどんな人だったのか

娘たちに全然話していなかった。



祖父も祖母も

母には厳しかった。

母は両親に認めてもらった記憶がない。

それでも、というべきか

離れるのではなくお世話をしていた。



祖父母の子育ては

時代背景も何もかも違うし

また自分たちも開拓者として歩んできた為

我が子には余裕がなかったのであろう。



たった牛3頭から

開拓者として

あの地を開き

我が子たちには

したくても心の余裕も術もしらなかったのかもしれない

そんな時代があって

孫である私には沢山の愛情をくれた祖父母。

母はどんな気持ちなのであろう。



核家族が当たり前になり

家族の繋がりが薄くなっている現代

私も忘れてしまいそうであった。



娘たちに 自分のルーツにあたる人がどんな人だったのか、

私が祖父母から聞いている祖父母の父母や祖父母の事。

しっかり伝えていこう。


祖母が旅立った日に

そう強く心に思った。