偉大なる東西二人の恩師:森下治郎(ソロイスト)&北村源三(NHK交響楽団首席) | 喇叭吹奏業(トランペット奏者)竹浦泰次朗のブログ

偉大なる東西二人の恩師:森下治郎(ソロイスト)&北村源三(NHK交響楽団首席)

 私は、高校~(途中、一浪期間を含め)大学時代にかけて二人の先生に師事していた。高校1年~大学4年までの8年間、森下治郎先生(ソロイスト、大阪芸大講師:当時)に、高校2年~大学入学までの3年間、森下先生のレッスンと並行しながら北村源三先生(NHK交響楽団首席、国立音大・東京芸大講師:当時)に、それぞれ教えを受けていた。

 

 この偉大なる東西二人の恩師の教えがあってこそ現在の私があることに間違いはない!

 

 森下治郎先生は、関西で一世風靡した伝説のソロイストである。その評判は、東京をはじめ全国的にも広まり知る人ぞ知る存在となっていたようである。あの当時、日本人であれほど素晴らしくピッコロ・トランペットを吹ける人はいなかったに違いない。森下先生は、天性の音楽的センスを駆使し、そのサウンド、フレージング等あらゆる面で際立っていてトランペットのソロ楽器としての可能性を追求したまさにスターであった(私の中ではあのモーリス・アンドレとイメージが被っていた --- 後で大阪芸大の先輩方から聞いて知った話だが、世間一般のあいだでも“モーリシタ・アンドレ”の異名があった程だそうだ)。高校1年生であった私は、そういう魅力に惹かれ森下先生の門を叩くことになったのである。私は、トランペットを始めて以来今現在に至るまで、いわゆるオーケストラの奏者に憧れたりなりたいと思ったことが一度もないのだが、それはこの森下先生に対しての憧れによるところが非常に大きかったためではないかと思う次第である。


 森下先生にレッスンを受け始めてまず指摘されたことは、アンブシュアのことだった。その当時の私のアンブシュアは、音が上がると口の両端が左右に引っ張られ、音が下がると元に戻るというような感じの動きを伴ういわゆる“スマイル・リップ”と呼ばれる状態であったようだ。常に口の両端をしっかりと固定し唇の中央を柔軟にして演奏できるようにならねばならないと指摘された。次に、“お腹(息)の支え”と“音の立ち上がりの瞬間を点で捉える”などを教わった記憶がある。そのうえでArbanやHering等のエチュード、曲等をみていただくといった感じだった。

 

 初めの半年位は、口の両端を固定するための戦いであった。口のことだけ意識してしまうと他の事がついついお留守になってしまい、それこそ演奏などが出来るどころの騒ぎではない状態が続いた。『“お腹(息)の支え”がしっかりしてさえいれば出来るはずだ』との助言を受けながら半年が過ぎた頃から徐々にその状態(口の両端を固定した)でいろいろなエチュードや曲がなんとなく吹けるようになりはじめてきたが、なぜそうなってきはじめたのかは全く解らなかった --- 当時森下先生のおっしゃる“お腹(息)の支え”の意味もよく解ってはいなかったし、(正直のところ・・・まだ何か窮屈な気がしていて、このままいっても森下先生のような音には決してなれないような、そんな疑いももっていた) --- しかしなにはともあれ、とりあえずなんとなく吹けるようになってきたので、楽観的にそれ以上あまり気にしなくなっていったのであった。


 森下先生のレッスンを受けて少し吹けるようになってきはじめた高校2年の夏から、こんどは東京で北村源三先生からもレッスンを受けることになった。(ほぼ一週間交代で二人の先生に同時期に交互にレッスンを受けることが、それから3年間続いた)


 北村源三先生は、当時NHK交響楽団首席奏者として一時代を築き上げ、まさに日本を代表するオーケストラ奏者として君臨されていた方である。全国的なテレビ中継等を通しての数々の逸話が神話となり、プロのトランペット奏者を志す者であれば知らない者など誰もいないほどのカリスマ的存在であった。
 

 源三先生(親しみを込めて、あえてこう呼ばせていただくことをお許し願いたい!)の最初のレッスンを受けた時、指摘されたことは何と(!!)『口の両端をもっと楽にしろ!』ということであった。源三先生の言葉をそのまま表すと・・・『なに口を緊張させているんだ!?もっと楽にして“バァーッ”と吹いてみろ!“バァーッ”と!ラッパってなぁ、そうやって吹くもんなんだ!』・・・こんな感じだった。いろいろとその場で試させられて、『そうだ、そんな感じだ!わかったか!?』と言われてからエチュードなどを見ていただいてレッスンは無事に終了した。翌週に森下先生のところへ行くと今度は逆に、『今まで何を聞いとったんや!アホッ!しっかり口の両端を支えんかい!』と怒られた。それでまたその場でやり直して、『ええか!わかったな!ちゃんとやらなあかんぞ!』と言われレッスンが終わって自宅に戻り練習を続けた。そのまた翌週、再び源三先生のところへ行くと、『こないだのレッスンで何を聞いてたんだ!?バカヤローッ!てめえは馬鹿か?!』と怒られた。そして源三先生に言われたとおりに練習して森下先生のところへ行くとまた怒られた。・・・・こういう状態が少なくとも2~3ヶ月続いたように記憶している。


 表面的に相反することを言われているようにも見え、私は訳が分からなくなり非常に困ってしまった。“森下先生と源三先生は、根本的に違う奏法なのか?”とか“森下先生の吹き方を源三先生が見たらやはり否定されてしまうのだろうか?”また逆に“源三先生の吹き方を森下先生は完全に否定されるのだろうか?”等など、いろいろな疑問が私の頭の中をよぎった。しかしながら当時の私にとっては、奏法的に解決することより、なにより一刻も早くどちらのレッスンに行っても怒られずに済むことのほうが先決であった。


 どうすればよいのか具体的な解決策はなかったが、とりあえず自分なりによく考えて練習しようと心掛けるようになった。それまでは、ただ言われたとおりにさえやればよいというような状態で振り回されてばかりいるのではないかと感じたので、今度はどちらの先生から指摘されたこともできるだけ冷静にかつ客観的に捉えよく考え、実際にそれを自分自身の体に当てはめ反応させながら、与えられたエチュード等をさらっていこうと決意したのである。--- 本当はどちらにも怒られないための妥協点を探すところからスタートし直したようなものだった --- が、しばらく続けるとなんとなく変化が起こってきた。いつのまにか、どちらの先生にも怒られなくなっていたのである。口の両端はそれほど動くこともなく、またそんなに口をこわばらせるようなこともなくなっていた。何より嬉しかったのは、いろいろなエチュードや曲が徐々に楽に吹けるようになっていくような予感がしたことかもしれない(怒られないことが一番嬉しかったはずなのだが・・・)。


 それまで私は二人の先生の相違点ばかり気になっていて、共通点などがあるということに気が付いてもいなかった。よく考えてみれば、森下先生と源三先生は、どちらも表現の仕方こそ違っていても常に音楽的に歌うということについて共通して重点をおいておられたのである。共通のエチュードや楽曲等の課題をそれぞれ違う視点から見て自分なりに音楽的に歌うという方向性を見つけ出すことができるようになるにしたがって、吐き出すエアーのコントロールなどが次第により正しい方向(当時の感覚では漠然としていて、それほど効率は良くなかったかもしれないが・・・)に導かれて働き始めた結果として、表面的アンブシュアの問題が改善されていったのではないかと推測している。私は、この二人の先生から直接言葉で教えられたわけではないのだが、間接的に何かトランペットが上手くなる秘訣(奏法の秘密)のようなものを授けられたような気がしたのであった。そうしていくうちに、いつしか私にはこのペースで森下先生と源三先生の両方からレッスンを受け(続け)ることが非常に心地のよい(上達していくことができるような手応えがある)ものに感じられるようになっていったのである。このサイクルでのレッスンは、私が大阪芸大へ入学するまで(3年間)続けることができた。貴重な経験であったと思う。

 

 トランペットの奏法とは直接関係ないのだが・・・


 私は源三先生のところにレッスンに行く時、いつも欠かさずやっていたことがある。もちろん、源三先生はこのことをご存じない。なんせ30年以上も昔のことなので今頃自供しても、もう時効が成立していて、おとがめはない筈だ。

 

 私は、源三先生のレッスンをいつもNHK交響楽団の練習場で受けていた。N響の練習場は、高輪の“泉岳寺”の程近くにある(京浜急行・泉岳寺駅から徒歩数分)。“泉岳寺”と言えば、江戸時代、忠臣蔵で有名な赤穂藩ゆかりの寺として知られ、浅野内匠頭と大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士の墓、吉良上野介の首洗いの井戸などがある。


 当時の源三先生のレッスンでは、出来が悪かったり練習不足の生徒はよく先生のお怒りに触れ短時間(わずか数分の人もいた・・・私は見たことがある)に帰らされる人が多かった。そこで私は忠臣蔵にちなんで密かに、自分自身の心の中で1時間以内にレッスンが終了させられてしまえば“返り討ち”、逆に1時間以上持ち堪えることができれば“仇討ち本懐”ということに決めていた。~(そのために、いつも与えられた課題の3倍以上の量のエチュード等をさらって用意していた。)~私は、源三先生のレッスンへ行く時は毎回、泉岳寺駅を降りてすぐに“泉岳寺”の大石内蔵助の墓前へ行き、手をあわせ“今日も源三先生に討ち勝てますように!”と願をかけて仇(源三先生)の待つN響へと出向いていたのである。3年間通い続けて一度も“返り討ち”にあったことがないことが、今も私の誇りである。


 今でも懐かしくて暇がある時は“泉岳寺”に行くことがある。数年前、東京での仕事が終わって羽田空港へ向かう途中で“泉岳寺”に立寄った時の事、泉岳寺駅のホームで現在のN響のトランペット奏者の二人とすれ違ったのを覚えている。(おそらく彼らは練習帰りだったのだろうと思うのだが、)トランペットのケースを持った私を見て何か不思議そうにしていた(ように見えた)。“どこへ行くのだろう?”と思われたかもしれない(推測)が、残念ながら現在の私にはN響には用事はなく、まさしく“泉岳寺”に行く用事があったのである。

 

 

 3年間の源三先生のレッスンで“返り討ち”にあったことがないのは違いはないのだが・・・一度だけ、1時間以上持ち堪えるどころか、結果的に3時間近くシゴかれたことがあった。私の心の中の取り決めでは“仇討ち本懐”に違いないのだが、実質的には“返り討ち”に等しい思いをしたかもしれない。
 

 私の喇叭人生で何ものにも換えがたい大切なことを教わったような、一生忘れることのできない思い出の一つである。誠に恥ずかしながら、ここでご紹介する。

 

 いつものように源三先生のレッスンを受けていたある日、課題がアーバンの“属七の和音の練習”の53番の一行目の一小節目にさしかかった時、それが始まった。“ド・ミ・ソ・ソ・ミ・ド”と私が吹き始めると突然、源三先生のカミナリが落ちた!!『バカヤローッ!』、もう一度“ド・ミ・ソ・ソ・ミ・ド”と吹くと『バカヤローッ!そんなのはラッパの音じゃねぇ!』といった感じだった。更にもう一度“ド・ミ・ソ・ソ・ミ・ド”と吹くとまたそこで止められ『バカヤローッ!てめぇには耳はねぇのか?!』と怒られた。


 このようなやりとりが何回か続いた後、今度は『バカヤローッ!』の度に頭を叩かれ始めた(何回も叩かれた)。この課題は本来、属七の分散和音の練習のはずなのに“ド・ミ・ソ・ソ・ミ・ド(トニック・コード)”しか吹かしてもらえず、続く二小節目の“シ・レ・ファ・ソ・ファ・レ(本来の属七の構成音)”に進むことができないのである。『いいか、ラッパの良い音を出してみろ!!』とか『お前の耳には、ラッパの良い音ってなぁ、そんなふうに聞こえてんのか?!バカヤローッ!』、『てめぇの耳は、ただの節穴か?!』等、吹く度に頭を叩かれ怒鳴られた。私は本当に泣きそうだった。


 時間だけがいたずらに過ぎてゆく中、とうとう私は源三先生に突き倒されてしまったのである!倒れている私に向かって源三先生は、『なさけねぇ奴だ!てめぇのこんな姿を親が見たら泣くぞ!この親不孝者め!!』、『てめぇのレッスン代と交通費はいくらかかって誰が払ってるのか分かってるのか!!バカヤローッ!』こうおっしゃったのだ。全くもってごもっともな話である。私は我慢していた涙を堪えることができなかった。泣きながら立ち上がろうとしている私に向かって源三先生は更に、『どうした?!悔しいか?!悔しかったら音でかかってきなっ!!』、『てめぇもラッパ吹きなら良い音出してかかって来いっ!!』とおっしゃった。私は、奮起して再び必死に吹いた。“ド・ミ・ソ・ソ・ミ・ド”と2~3回位吹いたところで、『そうだっ!そんな感じだっ!』、『ラッパってなぁそういう風に吹かなきゃぁ良い音はしねぇんだっ!!分かったかっ?!バカヤローッ!』と言っていただくことができた。しかしながら物理的に私の音のどこがどう変わったのか、本当のところは私にはさっぱり分からなかったのだが、一応『ハイッ!分かりましたっ!』と答えて、続きの残りの課題と曲を全て見ていただき無事にレッスンを終えることができたのである。


 幸か不幸か、いつもなら次から次へとレッスンの順番を待つ生徒がやってくるはずなのだが、不思議なことにこの日に限って私が帰るまで約3時間のあいだ誰一人として生徒がやって来なかったのである。私は、心身共にボロボロになっていたはずなのだが、なんともいえない清々しい気持ちで帰路に着いたように記憶している。きっと源三先生に“奏法の秘密(気合・根性・精神力)”を叩き込んでいただけたからではないかと今振り返ってもそう思うのである。

 

 源三先生には、大阪芸術大学に入学する時までお世話になった。その後、たいへんなご無沙汰をしてしまい・・・気が付けば、十年以上もの歳月が流れてしまっていた・・・

 

 1993年1月、偶然にも同じ雑誌に源三先生の記事と私の記事が一緒に載ったことがある。パイパーズ138号である。

 

 

 この雑誌が発売されてから数ヵ月後、日本トランペット協会の何かの懇親会の席だったと思うが・・・、私は源三先生と約11年ぶりの再会を果たしたのである。

 

 私にとっては源三先生と同じ雑誌に載ることはたいへん名誉なことで光栄に思っていたのだが、逆に源三先生からみれば決してそうは思われない(むしろ不快に思われている)に違いないと思い込んでいた。しかしながら、もう十年以上もご無沙汰だし、まさかまた会うようなことなどはないだろうと安心しきっていたのである。


 ところが、その懇親会でバッタリ出会ってしまったのである!私は、ふと条件反射的にあの“バカヤローッ!”の連発で叩かれていた頃のことを思い出していた。(私は、卑怯にも)どうにかして源三先生に気付かれずに済むことはできないものかと考えていたら、なんと源三先生が驚いたような顔をされてこちらを向いているではないか?!そして、目が合ってしまったのだ!!もう逃げることはできない!私は、腹をくくって源三先生の元へ歩み寄りご挨拶をしにいくことを決心した。 --- 今思えばおかしな話だが・・・やはり源三先生のことが恐かったのだと思う --- “どんなに罵られ叩かれようとも耐えなければ!”と心に誓い、『たいへんご無沙汰しております。竹浦です。覚えていただいてますでしょうか?』と言う感じで私は源三先生に話しかけた。すると源三先生は、にこやかに(しかし威厳をもって)『覚えてるってもんじゃねぇよ!お前、立派になったなぁ。ついこないだまでレッスンに来てたかと思っていたのに、一人前になって俺ぁ嬉しくってたまんねぇよ!パイパーズだってちゃんと読んでるよ!』とおっしゃっていただいた上に、両手で握手までしていただいたのである。私は、喩えようのないほど嬉しかった。この時の両手の感触は今もはっきりと覚えている。


 “北村源三”という人物は、私の想像をはるかに超えた広い心と大きな器を持っていたのだということを、私はこの時あらためて知らされた(と同時に、己の狭い心と小さな器も自覚させられ、また反省もさせられた)のであった。私(竹浦泰次朗)は喇叭吹きとしても人間としてもまだまだである・・・これが、源三先生から受けた最後のレッスンだったように思えるのである。

 

 源三先生のエピソードで年代が急に十年程(1993年に)とんでしまったが・・・このようにして<1982年、私は大阪芸術大学へ入学し源三先生のもとを離れふたたび森下治郎先生のもとで学び始めることになったのである。(森下先生一人だけに師事するのは、高校1年の時以来であった)森下先生には大学4年まで専攻実技(トランペット)と室内楽でお世話になった。“卒業まで”ではなく、なぜ“大学4年まで”なのかというと・・・いろいろな諸事情があって・・・実は私は、“音楽美学”と“音楽社会学”という
本来なら1年と2年で履修するべき二科目を人より多く勉強したかったという理由で
(本当は、ただ単位を落として留年しただけなのだが・・・)大学を5年もかかって卒業したという輝かしい(恥ずかしい)学歴をもっているからなのである。


 森下先生に師事した大学4年までの期間は、次以降に取り上げる以下の項目と年代的に一致するので、その際に述べることとする。

 

●アルマンド・ギターラ(伝説的オーケストラ奏者~元ボストン交響楽団)

●クラウド・ゴードン国際ブラス・キャンプ

●レフト・ハンデッド・トランペットとスタディ


いずれにしてもこの“森下治郎”と“北村源三”という<B>偉大なる東西二人の恩師に同時期の一定期間に並行して師事し続けることができたことが私にとって大いなる無形の財産となっていることはまず確実である!

 

 

 

 

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