霊とはなにか?

夏だからこんな話をしているのではない、

そこにあるのは、単なる恐怖心を駆り立てる想像の産物以外の何かがあると思ったからだ。

今日、高度に洗練され、バウマンがリキッドモダニティと呼ぶ、資本主義社会は、どんな人間をも合理的な考えへと導くようにできている。

もしそのシステムを否定すれば、職を失うだけでなく、自己そのものも失っていく危険さえある。

現代のシステムの前に、不合理さはおいていかれるのだ。

ところで、非日常は合理的な考えからは説明できない。

説明しようとすればするほど、かえって混乱していくのがおちだ。

これだけ、うつ病が増えているのも、(うつ病を患う本人にとっての)非日常があふれているからなのだろう。

そういう意味で、非日常は日常になったのだ。

さて、話を元に戻すと、霊と言うのは、非日常的な、あるいは不合理な、存在なのに違いない。

かつて、科学的に説明しようとする科学者がいたけれど、おそらく、本質は、霊というのが科学的存在か否かと言うよりも、日常と非日常の境がどこにあるのか?にあるように思う。

現代社会は、既に述べたように、存在を確立するのが難しくなっている。

今日存在したことが、明日も存在する保証はどこにもないのだ。

目の前に非日常が現れたとき、合理的な説明ではもはや説明しようがない。

だから、人によっては突飛な行動に出たりするのだろう。

合理性ではたどり着けない何かがあるからなのだ。

霊がいまもまだ私たちの心に存在するのは、時代遅れだからではなく、日常と非日常の境をさまようメタファーだからなのだろう。(それはときにこの世とあの世と言うわかりやすい比喩で言われたりする)

数年前にはスピリチュアルカウンセラーなるものがはやったし、占いはいまだに根強い人気を誇っているのも、不合理さが常に存在していることの表れなのだと思う。

つまり、私たちの心に潜む普遍的な存在なのだ。

あなたをじっと見つめる霊は、あなたを否定するためにやってきたのではない。

合理的考えに縛られ、合理的な世の中に慣れきってしまった毎日のなかで、あなたの心が乾いてしまったたとき、「その存在」を忘れそうになったときやってくるのだ。

今年の夏は、日常と非日常のはざまで揺れる霊のように過ごしてみるのもいいかもしれない。