書店に行くと必ず見かける、店頭に積み上げられた「こうすればモテル」関係の本。雑誌で必ず特集されている記事。誰かにもてたいという欲求は、決して今に始まったものではなく、昔から存在しているもののようだ。
それにしても、何故もてたいと思うのだろうか?もててどうするのだろうか?
自分の中で、もてるイメージというのは、どうしても美女に囲まれたハーレムみたいなものがまとわりつくのだが、どうやらモテルというのは、それだけではないようだ。
できるだけ嫌われないようにする、という消極的な意味合いのほうが強いようだ。ほんとにもてるとかえって嫌われるという皮肉な現象は、「美しさは罪」という言葉に表されるように、さし障りのないもて方を多くの人が求めているということの表れだろう。自分を積極的に主張するほかの国々とは違った日本人独特の感覚なのだろうか。そしてそれは、戦後60年経ってもそれほど変わってないということなのだろうか。
まぁ、しかし、個性的な生き方を求めていた人が多かったほんの数年前が懐かしい。いまや、ほとんど誰も個性的な生き方を目指していない。誰にも見向きされないような場所で、自分の世界を追求している人は少ない。あるいは、いたとしても、表だっていない。そういう人にスポットライトが当たるのは、その信条と矛盾するように思うかもしれないが、その社会が何に価値を置いているかを表すいい指標のように思う。
もてるもてないの問題ではなく、人生にはもっと追い求めるべき価値観があると思うからこそ、世界の端っこみたいな場所で細々とこんな文章を書いているのだが、もてるといういわば多数決原理的な価値観が世の中を覆っているうちは、こんな声は全然届かないのかもしれない。ただ、ここで主張しようとしている価値観は決して古いことではない。真に価値あることに古いも新しいもない。いつでも、価値があるからだ。金やダイヤのように古びることなくいつでも光り輝いているのだ。
表層的な価値観に縛られ、本質を見失うことが、あたかも本質になってしまっている市場原理主義に縛られているうちは、いつまでも幻想を見続けなければならないのかもしれない。