NHKで放送している『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』という番組をご存知ですか?

 

「あなたが気になる“あの事件”の裏には、かならずもう一つの物語がある」というコンセプトで毎回、様々なテーマを取り上げていますが、10月に『金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか』というタイトルで放送していていました。

 

1950年7月2日、京都の国宝、金閣が放火により焼け落ちました。犯人・林養賢は金閣寺で修行する青年僧です。林が取り調べで語った動機「美に対する嫉妬」という言葉に触発された三島由紀夫は名作『金閣寺』を執筆し、水上勉は三島と全く異なる視点で『金閣炎上』を発表しました。

 

なぜ若き僧は金閣に火をつけたのか?そして弟子に金閣を燃やされた住職・慈海の胸の内とは?金閣焼失に隠された謎と、人々を魅了し惑わす、その魔力に迫るという内容です。

 

僕は子供の頃から何度か金閣寺へは足を運んでいますし、世界一、美しい歴史的建造物だと今でも思っていますし、この建物を放火した人物に対して非常に興味も持っています。

 

この事件をモチーフにした、三島由紀夫さんが書かれた小説『金閣寺』も読んでいますし、水上勉さんの『金閣炎上』『五番町夕霧楼』も読んでいます。

 

三島さんの『金閣寺』を映画化した、市川崑監督の『炎上』も4Kにリマスターされたものを劇場で観ていますし、DVDで何度も観ています。

 

田坂具隆監督、『五番町夕霧楼』の幸薄い女性を熱演された、佐久間良子さんの哀しく美しい姿は忘れられません。

 

『五番町夕霧楼』は、1980年に山根成之監督、松坂慶子さんでも映画化されています。

 

『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』を見て、今まで気づけていなかったことを知れたので、今日は『金閣寺』のことを呟きたいと思います。

 

金閣寺の正式名称は鹿苑寺と言います。京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院です。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから舎利殿は金閣寺と普段は呼ばれています。正式名称は、北山鹿苑禅寺です。

 

寺名は、室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられたそうです。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたもので、舎利殿(金閣)は室町時代前期の北山文化を代表する建築でしたが1950年(昭和25年)に放火により焼失し、1955年(昭和30年)に再建されました。

 

1994年(平成6年)にはユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録されています。

 

『金閣寺放火事件』とは。

1950年(昭和25年)7月2日未明に、金閣寺町にある鹿苑寺(金閣寺)において発生した放火事件のことです。

 

1950年7月2日午前3時、鹿苑寺から出火の第一報があり消防隊が駆けつけますが、その時には既に舎利殿から猛烈な炎が噴出して手のつけようがなかったそうです。当時の金閣寺には火災報知機が7箇所に備え付けられていましたが、6月30日に報知機のためのバッテリーが焦げ付いていたため使い物にならなくなっていたのです。

 

幸い人的被害はありませんでしたが、国宝の舎利殿(金閣)46坪が全焼し、創建者である室町幕府3代将軍足利義満の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も焼失したのです。

 

鎮火後に行われた現場検証では、普段火の気がないこと、寝具が付近に置かれていたことから、不審火の疑いがあるとして同寺の関係者を取り調べた結果、同寺子弟の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢(本名・林養賢、京都府舞鶴市成生出身、1929年3月19日生まれ)が行方不明であることが判明し、捜索が行われました。

 

捜索の結果、林養賢は、寺の裏にある左大文字山の山中で薬物のカルモチンを飲み切腹してうずくまっていたところを発見され、放火の容疑で逮捕されます。林は救命処置により一命は取り留めました。

 

カルモチンとは、鎮静催眠剤の一つ。ブロムワレリル尿素という眠気を促したり(不眠の改善)、気分を落ち着かせる成分(催眠・鎮静剤)が配合された薬の商品名です。芥川龍之介や太宰治、金子みすゞなどが自殺に用いたと言われています。

 

逮捕当初の取調べによる供述では、動機として「世間を騒がせたかった」や「社会への復讐のため」などとしていたそうですが、実際には自身が病弱であること、重度の吃音症であること、実家の母から過大な期待を寄せられていたことのほか、同寺が観光客の参観料で運営されていて、僧侶よりも事務職の立場が上で、幅を利かせていると感じていたこともあり、この世の中では幸福や満足を得られないなどと、 物事の成り行きを悪い方向にばかり考えしまう複雑な感情が入り乱れていたとされています。

 

そのため、この複雑な人物の感情を解き明かすべく多くの小説家により文学作品が創作されたんですね。芸術家の創作意欲を刺激したと言いますか…。

 

三島由紀夫さんは「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と分析し、水上勉さんは「寺のあり方、仏教のあり方に対する矛盾により美の象徴である金閣を放火した」と分析したんです。

 

水上勉さんは少年時代、貧困ため家族から離され、禅寺に小僧として入り、修行生活の厳しさに13歳の時に出奔した経験をお持ちなので、放火した犯人に対して何かしらの理解はお持ちだったのではないでしょうか。その修行体験を元にした『雁の寺』で1961年、直木賞を受賞されていますし。『雁の寺』は1962年、川島雄三監督、若尾文子さん主演で映画化されました。名作ですよ。

 

水上勉さんが1962年に発表した『五番町夕霧楼』は、1958年の売春防止法施行まで存在していた京都の五番町遊廓を舞台に、家族を養うために丹後から遊郭へ売られた少女とその幼馴染である学生僧との悲恋を描いています。幼馴染である学生僧を金閣寺放火事件の犯人をモデルに書かれているんです。

 

放火犯である林養賢は、服役中に統合失調症(精神分裂病)の明らかな進行が見られたことから、彼を精神鑑定した医師によれば、事件発生当時、既に統合失調症を発症しており、その症状が犯行の原因の一つになったのではないかという指摘もあるみたいです。

 

統合失調症とは、幻覚や妄想といった精神病症状や意欲が低下し、感情が出にくくなるなどの機能低下、認知機能の低下などを主症状とする精神疾患です。 日本の統合失調症の患者数はおよそ80万人程度といわれているんです。

 

事件後、林の母親は京都市警による事情聴取のため京都に呼び出され(禅宗の僧侶であった父親はすでに結核により他界)、捜査官から事件の顛末を聞かされた母親は衝撃を受けます。その様子から不穏なものを感じた警官は実弟を呼び寄せて付き添わせましたが、母親は実弟の家への帰途、山陰本線の列車から亀岡市馬堀付近の保津峡に飛び込んで自殺をしてしまうのです。

 

1950年12月28日、林は京都地裁から懲役7年を言い渡されたのち、服役しましたが、服役中に結核と統合失調症が進行し、加古川刑務所から京都府立洛南病院に身柄を移され入院、1956年(昭和31年)3月7日に26歳で病死しました。

 

これが『金閣寺放火事件』の全容です。

 

今回は三島由紀夫さんが書かれた小説『金閣寺』をメインに呟きたいと思っています。

 

『金閣寺』もそうですが、三島さんは戦後日本社会で起こった事件を素材として多くの作品を執筆しています。

 

昭和24年には、GHQの介入による教育制度の変更によって、旧帝国大学である京都大学に入学することになった女子大生が、同校の男子学生によって殺害されたという当時話題となった事件を題材にした『親切な機械』、昭和25年に、東京大学の学生による闇金融犯罪「光クラブ事件」を取り扱った『青の時代』、昭和35年、都知事候補・野口雄賢と彼を支えた高級料亭の女将・福沢かづの恋愛と政治の葛藤を描き、プライバシー裁判にまで発展した『宴のあと』、昭和39年、近江絹糸の労働争議を題材に創作された作品で、第6回毎日芸術賞の文学部門賞を受賞した『絹と明察』などなど…高い評価を受けた作品を書かれていますね。

 

『宴のあと』も『絹と明察』も僕は読んでいますが、理屈抜きに小説として面白かったし、光景が目に浮かぶ鮮やかな文体と、生々しい人間の姿を描いた圧倒的な描写力に酔わせてもらいました。難しいことは考えずに、物語に没頭させてくれた作品です。

 

『金閣寺』は昭和31年、雑誌『新潮』1月号から 10月号に発表された長編小説です。同年10月に単行本 が新潮社より発行され、翌年、読売文学賞を受賞しました。『金閣寺』は、三島さんの最も成功した代表作というだけでなく、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされ、海外でも評価が高い作品です。

 

金閣寺の美に憑りつかれた学僧が、それに放火するまでの経緯を一人称告白体の形で綴ってゆく物語で、戦中戦後の時代を背景に、重度の吃音症(言葉を滑らかに話すことのできない“発話障害”の1つ)として生まれた者の宿命と、金閣の美に対しての憧憬と執着を抱きつつ、反面、美への憎しみ、虚無と妄信に苦悩し、引き裂かれて生きざるを得ない障害を持つ若き僧の心理や観念が、感情的にならず、冷静で緻密な文体で綴られています。

 

それまで三島文学に対し懐疑的・否定的な評価をしていた旧文壇の主流派や左翼系の作家も高評価をし、名実ともに三島さんが日本文学の代表的作家の地位を築いた作品だと言われています。文句のつけようがない傑作ですから。

 

人間には誰しも、もたざるを得ないコンプレックス(劣等感)という宿命(生まれる前の世から定まっている人間の運命)があると思うんですね。他人からすれば「なんだ、そんなこと」と思うようなことでも。

 

コンプレックスなんてない!と断言する人もままいますけど…果たして本当かなぁと思います。

僕はありますよ〜色々と。内緒ですけど(笑)。劣等感というのとは少し違いますけどね。

 

『金閣寺』は、戦前から終戦直後の京都が舞台です。若狭湾に面した成生岬にある貧しい僧侶の家で生まれた溝口は、幼い頃から吃音に悩まされる感受性の強い少年です。

 

父親から「金閣寺ほど美しいものは地上にはない」と聞かされ続け、美しい景色をみては金閣寺への憧憬を募らせて、いつしか自らの劣等感を忘れさせてくれる存在になっていました。

 

やがて金閣寺の徒弟となり得度した溝口は、戦争の中で金閣寺とともに滅んでいくことを夢みるようになります。しかし敗戦が、溝口と金閣寺の関係を決定的に変えてしまいました。戦時中は「滅びゆくもの」として自分と同じ側にあったと思われた金閣寺は、空襲にもあわず焼け残り、自分からかけはなれた「呪わしい永遠」と化したのです。

 

師である住職との関係、友人たちからの影響、女性との遍歴の中で深い挫折感を味わった溝口は、いつも変わらず美しい姿で、自分の目の前に立ち続ける金閣寺を憎むようになり「金閣寺を焼かなければならぬ」と決意するに至ります。果たして、金閣寺放火に至った彼の心境の裏には何があったのでしょうか?

 

金閣寺放火犯の心の闇を、色んな人が解き明かそうと、いろんな意見を述べています。三島由紀夫さんは『金閣寺』という作品で私はこう解釈したよと言っているのでしょうが、本当のところ放火犯の心の真実は誰にもわからないんですよね。こう言うと元も子もないですけど。

 

ほくが『金閣寺』を読んだのは中学生の頃です。日本文学の名作だし、読んでおかなければと読んだんだと思います。その時は完全には理解できなかったように思いますね〜。子供でしたし、主人公になかなか共感はしづらかったですから。

 

『可愛さ余って憎さ百倍』という言葉が頭に浮かんだことは覚えています。。可愛がっている者に対して、その度合いが強ければ強いほど、いったん憎いとなると、その憎しみも並大抵のものではなくなることをいいます。

 

放火犯も、子供の頃から憧れていた金閣寺を愛する気持ちが強ければ強いほど、理想と現実の狭間で、絶望し、苦悩し、幻滅し、目の前から消してしまうしかないと思いつめたんだと思いました。

 

『破壊衝動』という言葉がありますよね。人間に様々な事柄が原因となって主に発作的に沸き起こる衝動で、「キレる」と言ったりもしますが、怒りから物事を破壊したり、暴れたり、人を傷つけたりといった行為を起こすという欲求に駆り立てられるという状態になることです。

 

この頃は「ストレス」という言葉で簡単に片づけられとしまうところもありますが、日頃、抑えに抑え、耐えに耐えたきたことが極限に達した時、「堪忍袋の尾が切れた」なんて言いますが、それをグッと堪えることができない人は、人でも物でも消してやりたい、壊してやるという心理になるのではないでしょうか。

 

『金閣寺』の溝口は、子供の頃から吃音の障害を持ち、知能は高いのにもかかわらず、そのせいで知的な障害もあるのではと誤解され、人とのコミュニケーションが上手く取れません。誰も本当の自分をわかってくれないと思わずにはいられない状況で育ってきたので、社会にもに適応できず、内向的で悲観的で、「陰気な奴や」なんて言われる人物です。

 

当時の日本人の障害者に対する意識は今ほど高くはなく、偏見も強く、現在、差別用語と言われる言葉を平気で浴びせかける人も多数いた時代です。溝口が、俺は社会から嫌われている、呪われていると思っても不思議はない気がします。

 

『金閣寺』には、障害を持つ青年がもう一人登場します。溝口の大学時代の友人として、溝口に影響を与え続けることになる柏木です。

 

柏木は、内翻足(両脚の奇形)の障害を持ち、その障害を半ば確信犯的に利用しながら周囲と向き合っていて、吃音症を自分と外界を遮る障害と考える内向的な溝口に対し、内翻足こそが自分の個性であり、存在理由と豪語し、内翻足を武器に外界をねじ伏せようとします。

 

しかし、自分なんか「決して誰からも愛されるはずはない」と自覚している人物なんです。認めたくはないのでしょうが、自分の障害というものに呪縛されている人物なんですね。どこか悲しみを湛えた男です。

 

日本文学での「障害者」像は、障害を持たない人から見れば、「自分よりも悪い条件の下にあるにもかかわらず頑張っている人」「逆境に負けず、健気に明るく振る舞っている人」が多く描かれ、TVドラマなどでは障害を持つ人々は、ヒューマニズムという名のもとに「周囲の人々から温かい眼で見守られている人々」として描かれ、作り手側の「感動してください」というアピールに利用されているのでは?と思うこともあります。乗せられて涙させられることもありますけど。

 

障害を持っていても、前向きに明るく生きてらっしゃる方々もたくさんいらっしゃいますが、三島由紀夫さんの凄いところは、障害があろうがなかろうが、人間が人間である限りは、高貴な部分も下劣な部分も併せ持っているのだ。

 

そして、障害を持とうと持つまいと、男が男であり、女が女である限りは、「イケメンや美女と愛し合いたい、付き合いたい」と考えているはず。

 

また、障害を持つ人々には、障害を持つ故の嫌らしさ、汚さ、えげつなさというものがあるんだということを、溝口、柏木というキャラクターを通して描き切っているところです。

 

それを文学として昇華させているところに『金閣寺』という作品の凄みがあります。

 

『金閣寺』にはもう一人、気になるキャラクターがいます。

 

金閣の住職で、溝口の父とは起居を共にした禅堂の友人で、その縁で溝口を徒弟として預かる田山道詮和尚(老師)です。老師は、戦後社会に適応しているようにも見えますが、芸妓を囲っていたりして、世俗的な人物として描かれています。

 

老師は最初は障害を持つ溝口を、友人の息子であるし、ゆくゆくは自分の後継にと考えていました。溝口も心を許していましたが、新京極の雑踏の中で芸妓を連れ歩く老師を見たことをきっかけに、溝口は聖職への失望と虚しさを感じるようになり、老師を憎むようになるのです。

 

戦後、金閣寺は観光バスで観光客が大挙押し寄せるようになり、老師が金儲けに嬉々としているようにも見え、老師を冷ややかに見つめるようになります。

 

金閣寺の後継になれという、母親の打算的な目的には自分は従わないと思うようになり、学費を使い込んだり、遊郭へ遊びに行ったり、柏木に借金をしたりと、溝口は老師へ当て付けのように問題を次々と起こします。老師は「お前をゆくゆくは後継にしようと心づもりしていたこともあったが、今は、はっきりそういう気持ちがないことを言うて置く」と明言するのでした。自分で望んだことでも、後継者として外されたことで自ら未来の道を閉ざした溝口は、目に見えて学業がおろそかになり、破滅の道を進んでいくのです…。

 

溝口には老師の顔が、金、女、あらゆるものに手を汚し、現世を完全に見捨てた人に見えたんですね〜。

この老師も、溝口が金閣寺を焼いた原因の一つとして描かれています。

 

1958年に公開された、市川崑監督の『炎上』では原作に忠実に、老師のキャラクターは描かれていたと思います。演じたのは、二代目・中村鴈治郎さんです。

 

上方歌舞伎の伝統を継承し、立役から女形まで幅広い芸域を誇った方で、映画にも数多く出演されました。中村鴈治郎さんといえば、えげつない徹底したドケチ親爺『大阪物語』(1957年)、性に執着する老骨董鑑定士『鍵』(1959年)、女癖の悪い、旅回り一座の座長『浮草』(1959年)、造り酒屋の道楽者の隠居した老主人『小早川家の秋』(1961年)、主人公の父親を冤罪で陥れ、自死に至らしめた元長崎奉行『雪之丞変化』(1963年)などなど、強烈なキャラクターを巧みに演じられた名優でしたが、そんなイメージの鴈治郎さんが『金閣寺』の老師をまた絶妙に演じてられるので、実際の老師のモデルとなった方もそういう人だったのだろうと漠然と長年、僕は思っていたのです。三島由紀夫さん、水上勉さんの作品では、好色家、吝嗇などという表現がされているからです。

 

でも、『アナザーストーリーズ 運命の分岐点 金閣炎上 若き僧はなぜ火をつけたのか』を観て「そうだったのか…」と真実を知ることができました。

 

少年時代から70年間を金閣寺で過ごした金閣寺16世住職・村上慈海氏は、弟子に金閣を放火された後、「私の不徳の致すところ」とだけ仰り、金閣再建に奔走されます。

 

「申しわけない。弟子の放火で国宝を失った」

 

応永6年(1399年)に完成したと推定される、国宝・金閣寺舎利殿を自分の代で弟子の放火という形で、消失させてしまったという責任をどう取れば良いのか…。この事件は、慈海氏の人生に終生影を落とすことになりました。

 

以降、慈海氏は、放火事件について一言も口にしなかったそうです。言い訳もせず、非難、中傷にもじっとたえてらしたんですね。

 

慈海氏は金閣寺の再建こそが自分の使命というように国にも働きかけますが、戦後5年目で国自体の再建もままならない時期でしたので周囲は冷やかな反応だったそうです。

 

慈海氏はそれでも毎朝托鉢に出掛け、コツコツと基金を集められ、それが新聞にも載り、市民の気持ちにも変化が起き始めるのです。

 

当時のことを知る京都の人たちは誰も慈海氏のことを悪く言う人はいません。

 

そして全国行脚を経て支援の輪が広がり、事件から5年後に再建工事が始まります。その頃から放火犯・林養賢の結核が悪化。昭和30年10月、金閣寺の落慶式が行われ、同じ月に林養賢は釈放され、半年後に死亡します。

 

鹿苑寺には在家の者たちの仏間かあるのですが、そこには林養賢とその母親の位牌もあるのです。戒名もついています。『養賢/正法院鳳林養賢居士』『母親/慈照院心月妙満大姉』多分、慈海氏が付けたのだと思いますが、とても良い戒名ですね。慈海氏の二人に対する深い想い、愛情、慈しみが感じられます。

 

金閣焼失から35年後、慈海氏は83歳で亡くなられました。金閣に捧げた生涯ですね。とても尊い一生を送られたのだと思いました。世界的にも有名な小説に、本当の自分とは違う、自分をモデルとした人物が書かれていることへの無念さに耐えた人生だったのでしょうか…。

 

『アナザーストーリーズ 運命の分岐点』観ることができて良かったです。

 

最後に僕が初めて金閣寺を見た時のことを書いておきます。これは誰にも言ってはいないことです。僕の中ではとうに決着の付いていることなのですが…。

 

高校生の頃、学校帰りに大阪の梅田まで出て、一人で映画を見たり、紀伊國屋書店をブラブラするのが好きで、その日も本を見た帰り、阪急三番街のB2のトイレに入ったところ、後ろからついて来ていた男に突然、眉間を拳骨で殴られて、痛さとショックで声も出ずよろめいた時に、凄い力で個室(大)に引っぱり込まれて、制服のズボンとブリーフを引き摺り下ろされて、手と口で悪戯されたんです。最初は、恐怖で抵抗できませんでしたが、思い切って「あぁっ」と言って男の体を押したら、途中で逃げて行きました。

 

トイレを出てもまたその男に会うかもしれないと思い、怖かったので、巡回していた警備員さんがいたので、変な男に顔を殴られたことだけ話したら、阪急梅田駅の改札まで一緒について来てくれました。

 

帰宅して、両親にも変な男に顔を殴られたことだけしか言えず、鼻の骨が折れていたら大変だと翌日、病院で診てもらい、何事もなかったのですが、僕はしばらく口が聞けなくなってしまい、学校には両親に心配をかけたくなかったので休まず通いましたが、クラスのみんなの顔をまともに見ることができず、口をきくのも嫌で、鬱っぽくなってしまったんです。担任の先生にも迷惑をかけてしまいました。

 

映画を一人で観にいくと、横に座った男性に、腿をなでられたり、満員電車に乗ると男性の痴漢に股間を触られたりすることがよくあったので、僕に何か問題があるのかと考えてしまったんです。当時。塞ぎ込んでる僕を両親は心配したんでしょう。父がある日曜日に急に「出かけるよ」と僕を外に連れ出したんです。どこに行くのかも告げずに。

 

着いたところは京都でした。京都は毎年、お正月に家族で初詣で来る場所として馴染んでいましたが、父が僕を連れて行ったのは『京都定期観光バスツアー』でした。京都タワーで昼食を食べて、京都の名所をあれこれ周り、ツアーの最後の地が『金閣寺』だったのです。

 

父が何故、僕をそんなバスツアーに誘ってくれたのかは謎なんですけど、僕が三島由紀夫さんの『金閣寺』を読み終わった時、少しむずしかったかなぁと言ったことを覚えていて、それにまだ金閣寺に行ったことがないということを思い出したのかもしれません。

 

1987年(昭和62年)に金閣寺の「昭和大修復」が終わり、金箔も張り替えられていたので、父も見たいと思ったのかもしれないですね。僕たちが金閣寺に行ったのは多分1989年だったと思います。

 

ちょうど金閣寺に到着した時、雪が降り始めて、僕が初めて見た金閣寺はチラチラと降る雪景色の中で厳かに光り輝いていて、なんて美しい景色なんだととても感動したことを覚えています。あの時の金閣寺は僕の瞼に今でも焼きついています。

 

壮麗で優美で力強くて僕は金閣寺が大好きになりました。

 

その時、金閣寺を放火した、林養賢の気持ちが理解できたのです。林が見ていた金閣は修復される前ですから、今のように金色に輝いてはいなかったと思いますが、金閣が持つ美しさや妖しさに林は虜になったのではないでしょうか。

 

金閣には人を惑わす不思議な力がある…僕はそんな気がしています。

 

その日の帰り、やっと気持ちの整理がつき、父には「ありがとう」と言えました。久しぶりに言葉が口から出ました。

 

僕がこの世からいなくなっても、金閣はあのままの姿であり続けるんですよね。

 

今日は僕の思い出に付き合っていただいて、ありがとうございます。