ネットでこんな記事を見つけました。
「神奈川県川崎市のシネコン「チネチッタ」を運営する「チッタグループ」が今年で創業100年を迎えた。」
『チッタグループ』とは、東京近郊にお住まいの映画好きの方はご存知だと思いますが、川崎のイメージを変えたと言われているイタリアの老舗撮影所の名前を由来に持つ複合商業施設「ラ チッタデッラ』を運営されている会社です。
イタリアの丘陵に造られた街「ヒルタウン(丘の上の街)」をモチーフに作られたLA CITTADELLA(ラ チッタデッラ)は、首都圏最大級のスクリーン数を誇るシネマ・コンプレックス『チネチッタ』と、国内外のトップアーチストのライブが連日楽しめる大型ライブホールの先駆「クラブチッタ」を中心に、ショップ&レストランや、美容・エステ、リラクゼーション、ブライダル会場などが集まる、一つのヨーロッパの街を思わせる華やかな施設です。
川崎駅前を中心に観客動員数が約13万人となる 「カワサキ ハロウィン」(10月)の企画・制作をはじめ、沖縄大文化祭「 はいさいFESTA 」(5月) 、「 C I T T A の夏祭り 」(8月) 、クリスマスのイルミネーション等、様々なシーズンイベントも開催されています。
中世の時代(13・14世紀)、イタリアのトスカーナ、ウンブリア、ヴェネト地方周辺では、街は丘の上に造られ、その周囲は城壁に囲まれているのが特長だったんです。当時、イタリアではそうした街を『CITTA' DELLA(チッタデッラ)』と読んでいた史実にちなんで、『ラ チッタデッラ』とネーミングされたんですね。
CINECITTA’(チネチッタ)のネーミングの由来は、イタリア語のCINEMA(映画)とCITTA’(街)を組み合わせた造語で、ローマ郊外に実在する撮影場所=CINECITTA’に因んだものだそうです。
『CINECITTA’』は、イタリアの名匠、フェデリコ・フェリーニ監督が作品を撮っていた撮影所として有名ですね。
イタリア映画の全盛期に多くのイタリア映画のみならず「ベン・ハー」などのアメリカ映画の大作までもが撮影され、世界各国にその名を轟かせました。
日本の映画監督、増村保造さんが学んだ場所としても知られていますね。
何故、川崎にイタリアの街が?と思われる方もいらっしゃると思いますが、現在のチッタ エンタテイメント代表取締役社長は美須アレッサンドロさんですが、先代社長、アレッサンドロさんのお母様、現会長の美須孝子さんがイタリア人外交官の奥様でいらして、以前、世界的ファッションブランド「FENDI」の日本PR代表を務めてらした関係で、公私においてイタリアとの関係が深く、イタリア人が人生を前向きに楽しんでいる感性をエンタテイメントとして取り入れたいと思われたからなんだそうです。
今回、僕が『LA CITTADELLA(ラ チッタデッラ)』のことをblogに書こうと思ったのは、一時期、美須孝子さんに大変お世話になったからなんです。
もう随分、ご無沙汰をしてしまって、僕のことなんか忘れてらっしゃるかもしれませんが、僕は今でも折に触れ思い出し、「あの時はありがとうございました」と心の中で呟いているのです。
孝子さんと初めて会ったのは、前回のblogでも書かせてもらいましたが、僕が昔、お付き合いをしていたヘアーメイクアーティストの彼氏が繋いでくれたものでした。
昔話は後ほど…。
まずは、チッタエンタテイメントの始まりから…。
1922年(大正11年)、孝子さんの祖父にあたる美須鐄さんが人々のためになり、人々に楽しみを与えられる街を創りたいという地元の人々の声に応えて、東京都荒川区内日暮里にて娯楽街づくりを計画、映画館経営を始めたことによります。
1936年(昭和11年)頃に、より総合的な街づくりを目指して当時人口17万人だった川崎市の駅前に進出し、次々と映画館をオープンさせ、“川崎映画街”を築かれます。最盛期の昭和40年代には計27もの映画館を運営されていました。
その間、関東大震災、太平洋戦争などで全ての映画館を焼失してしまっても、即座に復興計画を立てて、映画館の建設とともに川崎と蒲田の街の復興に尽力されてきました。
蒲田の駅前の商業ゾーンを歩いていると、ボウリング場やビジネスホテル、サウナなど美須さんの経営している施設がたくさんあります。地元の人はミスタウン(美須の町)とか美須通りとか読んでいました。
でもそれって凄いことですよね〜。地元の人に長年愛されているということなんじゃないでしょうか。
映画産業は1950年代に黄金期を迎え、その後テレビの台頭があり1960年代に急速に斜陽産業化していました。そして孝子さんのお母様の君江さんが二代目社長の頃、高度経済成長期に建てた数々の映画館は築30年以上が経過して、徐々に老朽化が進んでいました。
1980年を過ぎると家庭用ビデオデッキが登場し、1983年頃に「レンタルビデオショップ」が出現し始めます。
映画館に行かなくても、お気に入りの映画を家に居て何度でも楽しめるようになり、これで生活における映像という文化が劇的に変わってしまったんですね。
娯楽が多様化し、ミスタウンの老朽化した映画館では、この新しい生活文化に勝負が出来なくなっていたんです。
エンタテイメントで長年、街の文化や賑わいを牽引してきた美須家には、地元や行政から「なんとかなりませんか?」というの期待の声が上がっていたそうです。
君江さんは、会社の将来を一人娘の孝子に託されたんですね。君江さんは、アメリカ留学の経験があり、高度成長期を切り開いて事業を成功に導かれましたが、孝子さんはそんなお母様の苦労を近くで見てらしたから躊躇されるんです。
この頃の孝子さんは3人の子育てをし、イタリア人外交官の妻として公式行事をこなしながら、世界的ファッションブランド「FENDI」の日本PR代表を務めてらっしゃいましたし、この上さらに、街の原動力となっているエンタテイメント事業を受け継ぐ決心をすることは容易いことではなかったんですね。
しかし、厳しい局面にあった家業である映画館事業の苦難を背負っていた母・君江さんの想いを受け継ぐのは私しかいないと決意されたのです。
孝子さんはまず、映画ビジネスにおける本場ロサンゼルスに飛び、エンタテイメントというものの本質を研究・奥義を極めようと努力されます。
そして、開発プロジェクトを立ち上げ、ファッション界の重鎮やデザイナー、建築家たちを招き入れて、これまでとは全く別の切り口で、感性を重視したビジネスプランをもとに開発計画を立て、昭和62年(1987年)日本にはまだ存在しなかった本格的な大型シネマコンプレックスを創られたのです。「チネチッタ」の誕生です。
翌年の昭和63年(1988年)にはライブホール「クラブチッタ」をオープンさせます。
この成功が、これまでの日本の映画館ビジネスの価値観を革命的に変化させたのです。
平成5年以降になると、外国資本のシネマコンプレックスが次々と日本に進出し、1990年代はシネコンラッシュで、アメリカの郊外にあるショッピングセンター型のシネコンが、人口の密集している都心ではなく、郊外や地方都市に乱立するようになります。
孝子さんは、そんな時代の動きを敏感に感じながら、祖父・美須鑛さんの遺志を継いでさらなる本格的な街づくり構想を描くのです。
孝子さんは、川崎にはまだポテンシャルがある、街はもっと良くなれると考え行動に移します。官民一体による大ブロジェクトの始まりです。
まず世界的に有名な建築家ジョン・ジャーディー氏に会うためにロサンゼルスに飛び、街づくりの構想の話を持ち掛け、この事業に参加してもらうよう交渉を繰り返し合意を得ます。
ジョン・ジャーディーといえば、ロサンゼルスオリンピック (1984年)の都市計画で名を馳せ、日本のキャナルシティ博多、電通本社ビル、なんばパークス、六本木ヒルズなどを手掛けた方です。
それから孝子さんは、イタリアの街を見て回ります。考えていたのはチネチッタやクラブチッタなど、既存の建物をすべて取り壊し、そこにあらたにイタリアの街を創ってしまうという大胆な構想でした。
そして平成14年(2002年)に実現したのが、イタリアのヒルタウンをデザインモチーフにしたエンターテイメントの街「ラ チッタデッラ」なのです。
オープンした翌年の2003年から2006年まで、シネコンのチネチッタは、年間動員数、興行収入において4年連続で日本一となり、ラ チッタデッラを訪れる人は年間250万人を越え、商業施設として周辺と世界観を隔絶するのではなく、川崎の街の一部として存在し、賑わいの中心的な役割を果たす場所として現在も賑わいを見せています。
株式会社 チッタ エンタテイメントは、LGBTフレンドリー企業(LGBTフレンドリーな企業とは、従業員がLGBTをカミングアウトしている、していないに関わらず、LGBTが働きやすい職場職場づくりに取り組んでいる企業のこと)です。
2020年の東京オリンピック・パラリンピック開催を契機に、 国内で俄かに関心が高まりつつあるダイバーシティ(多様性の尊重)の観点から、 特にLGBT(性的マイノリティ)の問題に注目し、LGBT分ドリーに街づくりを目指した取り組み 『川崎CITTA’虹Project』を、2016年より川崎市などの協力のもと進めています。
具体的な取組として、ゲイタウン、新宿2丁目のコミュニティと連動した ライブショーを「クラブチッタ」で、またその併催企画として「チネチッタ」の1スクリーンを使用し、 LGBTをテーマにしたドキュメンタリー映画の上映会「チネチッタ・レインボーシアター」を定期的に開催しているいい会社なんです。
僕が孝子さんと初めて会ったのは、「ラ チッタデッラ」がまだ工事中で、もうすぐ完成という頃だったと思います。
孝子さんはお育ちになった環境から、マスコミが勝手に芸能界の「ドン」と呼ぶような芸能プロダクションの社長さんたちとも親しく、多くの芸能人の方々とも幼い頃からお友達が多い方だし、JR川崎駅東口に複合商業施設を建設中の会社の代表ということもあり、当時、「家庭画報」や創刊されたばかりの「和樂」という雑誌などで特集されることがよくあったんです。
孝子さんは、会社の営業、宣伝のため、積極的に取材は受けられていましたが、写真を雑誌社のプロのカメラマンに撮られるとうことで、ベテランで腕のいいスタイリスト、ヘアーメイクを探してらしたんです。
先にスタイリストさんが決まり、その方の紹介で僕が以前、お付き合いをしていた彼がヘアーメイクを担当することになったんです。
彼がヘアーメイクをした孝子さん
二人はすぐ意気投合して、親しくさせていただいていたようです。
ある日の夕方、僕がまだ広告のデザインの仕事をしていた時、彼からメールがきました。まだガラケーの時代で仕事中でした。
「仕事が終わったら電話して」と。
電話をすると、「孝子さんの自宅まで来て」というのです。孝子さんのことは彼から幾度と話は聞いていたのですが、突然そんなこと言われて、僕、すっごい方向音痴でよく道に迷うんですよ〜。初めて行く場所は特に。「え〜、なんでぇ〜」と思いましたが、断る理由もないし、蒸し暑い日だったと記憶していますが、急いで行きました。
凄いお家でした!
緊張で喉はカラカラ。倒れそうでした(笑)。
その日は、孝子さんの自宅で雑誌の取材があったらしく、雑誌社の編集部の方々、カメラマンなどがいらして、広ーいバルコニーで長ーいテーブルに座り、プロの出張シェフが作る料理を皆でご馳走になったんです。
僕なんかその日、なんの関係もない部外者で、一言も口を聞けなかったですし、緊張して何を食べたかも覚えてもいません。
この日が僕が孝子さんとあった最初の日です。
またプレオープンイベントにも呼んでいただきました。まだ工事中のショップもありましたが、開業前にお世話になった方々を招待客として招き、感謝の気持ちを伝えることがプレオープンイベントの主な目的なのですが、地域の方々にも開店することを大々的にアピールすることができ、正式オープン後の集客につなげることができるのです。
ヘアーメイクアーティストの彼は、その頃よく仕事を共にしていた女優のTさんと、友人だった、お金の神様と呼ばれた経済評論家で直木賞作家の息子さんを誘い伺いました。
オープン前の誰もいない出来立ての劇場やチャペルに潜り込んで写真を撮ったり、TVに出ている有名な方々を近くで見れたりして、刺激的な一夜でした。
孝子さんがあるパーティーで、松任谷由実さんと意気投合され、親しくなられて『ユーミン・スペクタクル・シャングリラ1999』に孝子さんが招待されて、ヘアーメイクアーティストの彼も誘われたのです。
孝子さんは、イタリア大使館の職員の方数名と僕たちはまた女優のTさん、直木賞作家の息子さんを誘って行きました。
ライブが始まる前、招待客が一箇所に集められる場所があるのです。たくさんの芸能人、有名人がいらして、僕はそういう場所は初めてだったので、また緊張して固まっていましたが、そこへ松任谷由実さんがツカツカと入ってこられて、一直線に脇目も振らず突進して行ったのは孝子さんのところでした。
孝子さんを知らない人は「誰?」って思ったでしょうね。
それを遠目で見ていたら、松任谷由実さんがこっちへ歩いてきたんです。僕の隣の席が空いていて、そこに松任谷由実さんが座ったんです〜。驚きました〜。
女優のTさんがいたからかもしれませんが、直木賞作家の息子さんと幼い頃より知り合いで幼なじみだとおっしゃっていました。
その時印象に残っているのは、松任谷由実さんが「三波春夫さんが観にきてくれたのよ」と嬉しそうに語っていたことです。
でもこの話にはオチがあるんです〜。
ショーが終わった後の孝子さんの一言です。
「こんなの、ラスベガスへ行ったら、もっと凄いの毎日やってるわよ〜」
ヘアーメイクアーティストの彼は大爆笑をしていました(笑)
孝子さんは、意地悪や悪気があって言ってるのではないんです。本場で本物を見続けてこられた方だし、素直にポロッとこぼされただけなんですよね。とても素直で天真爛漫な人なんです。孝子さんは。
孝子さんは当時、「FENDI」の日本PR代表をされていました。
「FENDI」に「バゲット」という名前のハンドバックがあります。ショルダーストラップを用いて、小脇に抱えるシンプルな形がまるでフランスパンの「バゲット」のように見えるからのネーミングだそうです。
「フェンディ」の3代目であるシルヴィア・フェンディのデザインと言われていますが、身体が華奢な日本人向けにもう少し小ぶりで可愛いバックはできないかという孝子さんのアイデアが取り入れられていると聞きました。
その「FENDI」主催のパーティーがCLUB CITTA'で行われた時も招待していただきました。
女優さんやモデルさんが、そのブランドの衣装やジュエリーを身につけて写真撮影に応じている映像をよく見ますよね。そんなバーティーです。
このドレスはこの人へという配分やコーディネートも孝子さんが指示していたように思います。
ある時、孝子さんが京都へ『都をどり』を観に行くので、ヘアーメイクを頼みたいと連絡があり、僕も彼についてご自宅へ行った時のことです。
孝子さんは黒のドレスをお召しになっていて、胸元にハイブランドのジュエリーネックレスが輝いていました。
僕が何気なく「どこのドレスですか?」って聞いたら、「サンローランのオートクチュールよ〜」と孝子さん。
僕が思わず「すご〜い」と言ったら孝子さんはこう言ったんです。
「こんなの普段着よ〜」って。
孝子さんの何気ない言い方が可笑しくて。
孝子さんは笑わせようと思ってもいないし、自慢げに言っているわけじゃない。そんな下品な人じゃないんです。
本当に素直で天真爛漫な人なんです。
その日、ご馳走になったネパール人のメイドさんが作ってくれた本格的なネパールカレーが美味しかったです。
そしてヘアーメイクアーティストの彼の様子がおかしいなと思った時、真っ先に電話して相談したのが孝子さんでした。
あの時は、孝子さんしか考えられなかったんです。
話をすると、孝子さんも少し、彼の様子が変だなと感じてくれていたようで、すぐ知り合いの先生を紹介してくれました。
彼が入院してからも、何度もお見舞いにきていただいて、本当にありがたかったです。
彼が天に召された後も、こんな僕なんかの心配をあれこれとしてくださり、僕が所属していたデザイン事務所に、「ラチッタデッラ」のリーフレットやチラシのデザインを発注してくれたり、会報誌のデザインを一新するときのプレゼンにも参加させてくれました。
僕がデザイン事務所を会社都合で退社した時も心配してくださり、チッタ系列のどこかの会社を紹介してあげるとも言ってくださいました。
でもそこまでは甘えられないと、自力でなんとか探した会社で働き過ぎて過労で倒れ、頭を強く打ち、気を失い、急性硬膜下血腫で入院した時も、花を持ってお見舞いに行くと言ってくださったんですけど、病院から「花は禁止」と言われて孝子さんはガッカリしていましたね。
僕が退院したら、快気祝いをしましょうと言ってくださっていましたが、ちょうど同じ頃、孝子さんのお嬢様の体調が悪くて入院されてこの話は立ち消えになっしまいました。
僕も入院をきっかけに会社を退社しましたし、自分のこれからのこと、日に日に衰えてゆく父の介護と大きな試練を背負うことになったので、孝子さんとの縁もだんだんと薄くなってしまいました。
僕はあまり自分の過去を振り返ったりしない方です。あの頃はよかったなぁとか、あの頃に帰りたいとかも思わない人間です。
でも、『チッタグループ』が今年で創業100年という記事を読み、昔こんなことがあったなぁと思い出した次第です。
僕は、孝子さんのような素敵な人に引き合わせてくれたヘアーメイクアーティストの彼に今でも感謝しているし、僕みたいな者にも、いつも優しく接してくれた孝子さんにはお礼を言いたいです。ありがとうございました。
そして『チッタグループ』創業100年、本当におめでとうございます。