こんばんは。

昨年のことですが、第27回京都賞の芸術思想部門で歌舞伎俳優の
「坂東玉三郎」さんが受賞されました。それを記念した番組、
「歌舞伎俳優 坂東玉三郎 ~京都賞受賞 未来へのメッセージ~」
がNHK BSプレミアムで放送されたのでそのお話をしたいと思います。

京都賞とは、京セラ名誉会長である稲盛和夫さんが設立された
稲盛財団の「人のため、世のために役立つことをなすことが、
人間として最高の行為である」、そして「人類の未来は、科学の
発展と人類の精神的深化のバランスがとれて、初めて安定したもの
になる」という理念を具現化するべく行われている顕彰事業で、
世界中から推薦された候補者の中から、公正かつ厳正な審査選考を
経て決定される国際賞だそうです。毎年、先端技術部門、基礎科学部門、
思想・芸術部門の各部門に1賞、計3賞が贈られます。
映画・演劇界からは過去にアンジェイ・ワイダ監督、
ピーター・スティーヴン・ポール・ブルックさん 、黒澤 明監督、
モーリス・ベジャールさん、吉田 玉男さん、ピナ・バウシュさんが
受賞しています。舞台俳優で受賞したのは玉三郎さんが
初めてだそうです。

玉三郎さんを選んだ理由について、思想・芸術部門の審査委員長を
務められた高階秀爾、大原美術館長はこうおっしゃっています。
「歌舞伎を中心にしながら幅広いジャンルの舞台で成功しており、
それらを国際的に広く認めさせたことは他に例をみない」と。

玉三郎さんは京都賞を受賞されたことをとても喜んでおられる
ようでしたね~。稲盛財団の理念に深い共感を寄せられている
みたいでした。
僕はそんなに歌舞伎には詳しい方ではないのですが、子供の頃から
玉三郎さんが出演されている演目がTVで中継があると観てましたからね。
女性ではないと知りつつ、美しいなあ~と思っていました。

玉三郎さんが今まで受賞された賞です。
1991年 フランス芸術文化勲章シュバリエ章
1997年 モンブラン国際文化賞(モンブラン文化財団)
1997年 毎日芸術賞(毎日新聞社主催)
2009年 菊池寛賞(日本文学振興会主催)
そして今回の京都賞です。

僕が玉三郎さんの舞台を初めて観たのは、1984年、京都南座での公演
「明治一代女」と「長崎十二景」でした。父の知り合いの方で
歌舞伎に詳しい方がいて、僕が玉三郎さんの話をすると、連れて行って
くれたのです。まだ南座がリニューアルする前で、初めて見た南座は
大きくて風格があって、中におでん屋さんがあったりして、
僕にとっては異空間でした(笑)。歌舞伎の公演ではなかったのですが
遠い記憶ですけれど、この世のものとは思えないものを観た! という
ことだけはハッキリと憶えています。

それから僕が観た玉三郎さんの舞台は…
1993年、「ナスターシャ」。ロシアの文豪ドストエフスキーの名作
『白痴』をもとに、玉三郎さんが運命の女=ナスターシャと、
ムイシュキン公爵の二役を演じ、「灰とダイヤモンド」や「大理石の男」
などを監督したポーランドの巨匠、アンジェイ・ワイダさんが演出した
舞台です。大阪茶屋町にあるMBS(毎日放送)本社ビル内にあった
ギヤラクシーホールでの公演でした。イベントなどを行う
何も無い広いスペースの真ん中で、玉三郎さんは演じられていて、
僕たち観客は回りを囲むように椅子に座り、玉三郎さんとすごく
近い距離にいたのでドキドキしましたよ~。

1993年、「エリベザス」。ル・テアトル銀座(当時は銀座セゾン劇場
と言っていました)で観ました。エリザベス一世は何故、生涯独身
だったのかをテーマにスペインのフランシスコ・オルスさんが
書かれた戯曲をヌリア・エスペルさんが演出した翻訳劇です。
この舞台はほんとうに感動しました。衣装も美術も戯曲も演者さん
たちもすべて素晴らしかったです。もう一度観てみたい舞台です~。

1993年、「天守物語」。シアタードラマシティで観ました。
玉三郎さんのライフワークと言われる、泉鏡花さん原作の戯曲です。
白鷺城に棲み着く天守夫人、富姫と、若き鷹匠、図書之助との
恋物語です。玉三郎さんの美意識に彩られた美しい世界でした。
図書之助役は堤真一さんでした。

1995年、「女人哀詞」。日生劇場で観ました。松竹創業百年記念の
公演でした。山本有三さんが唐人お吉をテーマに書かれた戯曲です。
この舞台の玉三郎さんもほんとうに素晴らしかったです。これも
もう一度観たいと思う舞台の一つですね。

1999年、「夕鶴」。銀座セゾン劇場(現、ル・テアトル銀座)で
観ました。木下順二さん作で、山本安英さん以外はプロの女優さん
では上演できなかった作品なのですが、山本安英さん没後4年目に
玉三郎さんが継承されることになったのです。相手役は渡辺徹さん
でした。
 
2000年、「海神別荘」。日生劇場で観ました。「天守物語」と
同じく泉鏡花さんの代表作の一つです。この戯曲は人間の醜さや
愚かさが徹底的に描かれていて、幻想的な世界で繰り広げられる
海神の公子と生け贄になった人間の娘の恋が切ないんです。
これも大好きな作品です。

こう書き出してみると、歌舞伎の公演が一つもありませんね。
歌舞伎ってなかなか一緒に観に行ってくれる人がいなくて、
どうせ行くなら良い席でと思うと少しお高いし、敷居が高いと
いいますか。だからもっぱらTVの舞台中継で楽しんでいました。

玉三郎さんご自身も、歌舞伎以外のものに興味をもたれていた
時期のようですね。この頃は歌舞伎の人気が低迷していて
地方の劇場は歌舞伎ではない玉三郎公演を求めたそうです。
玉三郎さんの心の中に、歌舞伎ではないことをしてみたいとの
想いが強くなり、それを可能にするアイデアや能力、さらに
人気と集客力があったので実現したのでしょうね。

2003年、やっと念願の歌舞伎座デビューを果たしました。
「京鹿子娘道成寺」です。DVDで何度か観ていましたが
やはり生で観るのは格別でした~(笑)。安珍・清姫伝説の後日譚を
舞踊化したもので、舞に華麗さ、品格の高さが要求され、芸の力と
高度な技術に加え、相当の体力が必要となる、1時間近くを1人の
女形が踊りぬく女方舞踊の大曲です。
白拍子花子は実は清姫の怨霊で、鈴太鼓を手に持って踊っている
途中で、一瞬に白拍子から清姫の怨霊に表情が変わるところは背筋が
凍る迫力です! 大好きな舞踊です。

玉三郎さんは映画の世界でも活躍されています。僕の好きな作品を
あげてみますね。
1979年に主演された、泉鏡花原作、篠田正浩監督の「夜叉ケ池」です。
玉三郎さん映画初主演作品ということで、松竹も力を入れた
のでしょう。ラストの夜叉ケ池が氾濫するシーンの特撮などが
迫力ある超大作でした。映画評などでは「玉三郎が女に見えない
ところがツライ」などと的外れな酷評をされ、興行的にも失敗で、
玉三郎さんご自身も納得のゆく仕上がりではなかったみたいです。
だって女性じゃないのは、初めから分かってることなのに…。
だからでしょうか、今だにソフト化されていません。
でも僕は大好きな作品です。共演の山崎努さん、加藤剛さんも
良いお芝居されているんです。たまに幻想映画特集などでひっそり
上映されたりはするんですけど。夜叉ケ池に住む、白雪姫の玉三郎さん
良いんだけどなあ。いつかDVD化しほしいです。

映画の監督もされています。
1991年、泉鏡花原作「外科室」1992年、永井荷風原作「夢の女」
どちらも吉永小百合さん主演です。「夢の女」はベルリン映画祭の
正式出品作品でした。1995年、玉三郎さんご自身が主演された
「天守物語」。宮沢りえさんが妹分の亀姫、宍戸開さんが
図書之助役でした。 

僕が印象に残っているのは1984年、メトロポリタン歌劇場の開場
100周年記念ガラ公演に玉三郎さんが招待され、シャンソンのイヴ・
モンタンさん、バレエのルドルフ・ヌレエフさんやマーゴ・フォンテーン
さん、オペラのプラシド・ドミンゴさんらと同じ舞台で、日本の代表と
して『鷺娘』を披露されたことです。当時、TV中継されたんですよ。
これが玉三郎さんが世界的に広く注目されるようになったきっかけ
ではないでしょうか。
しかしこの「鷺娘」を「これは歌舞伎ではない。古典の破壊だ」と
言った方もいるらしいです。バレエで鍛えられた、しなやかな身体の
動きが逆にこのような批判をうんだのでしょうか。
先人の芸を継承することも大事だと思いますが、自分なりの解釈を
プラスして、これが「玉三郎の芸です」といつも僕たちに提示して
くれる玉三郎さんに僕はいつも感動を与えてもらってきました。

玉三郎さんは「歌舞伎俳優 坂東玉三郎~京都賞受賞 
未来へのメッセージ~」という番組の中で、坂東玉三郎丈
第27回京都賞学生フォーラム「こころとかたち」という
テーマで高校生や一般の女性に対して、自分自身の半生について
語られました。インタビュアーは鷲田清一さん。大谷大学教授、
大阪大学前総長です。
玉三郎さんは梨園のお生まれではありません。東京、大塚の料亭の
五人兄弟の末っ子として、料亭に出入りする芸者衆に囲まれて、
幼少期を過ごされます。その頃、小児麻痺にかかられて、右足に
後遺症が残るのです。それが原因かは分かりませんが、玉三郎さんは
幼稚園へ行かなくなります。ご自身の意志だったそうですが、
そんな玉三郎さんにご両親は、日本舞踊を習わせることにしました。
その師匠が歌舞伎役者、守田勘彌さんの妻であった守田勘紫恵さん
だったのです。踊りの才能があった玉三郎さんは守田勘彌さんの
内弟子になります。後に養父となられる方です。

14歳で五代目、坂東玉三郎を襲名されます。玉三郎さんは梨園の
御曹司ではなく、養父の勘彌さんは名優と謳われた方だったそうですが、
劇界でのボジションは中村歌右衛さん、松本幸四郎さん、中村勘三郎さん
といった大幹部の方たちと比べると一段低く、勘彌さんは玉三郎さん
が24歳の時にお亡くなりになったので、玉三郎さんは早くから後ろ盾を
なくされ、大変苦労をされたようです。
それに玉三郎さんは、それまでの女形さんより身長が10cm以上も高く、
相手役さんに嫌われたとか。なかなか歌舞伎座の舞台に立たせて
もらえなかったそうです。

権威や権力もなく、そんなハンデを乗り越えられて、現在、
日本の歌舞伎界を背負い立女形の最高峰として活躍されている
玉三郎さんの言葉はとても重みのある考えさせられる言葉でした。
「美しいだけで芸はまだまだ。」「あんなのは歌舞伎じゃない。」
などの批判を受けながら、様々なことにチャレンジし続け、結果を
だされている素晴らしいアーティストとして尊敬するお一人です。
美しいというのも、一種の才能といいますからね。
歌舞伎というファンタジーの世界に生きる「女」を表現するために
どれだけの研鑽と努力を重ねられているか、それが理解できない人
は玉三郎さんの舞台を観ても何も感じないでしょうね。

会場にこられていた方の質問に、玉三郎さんが答えるコーナーが
あり、一人の女性の学生さんが「不可能を可能にするにあたって、
努力することの大切さを聞きたい」と質問されました。
玉三郎さんはこうお答えになりました。
「努力することの大切さの意味は話せません。努力するしか
ないんです。」「努力しなければ、絶対、成功はしません。」
と断言されました。「並大抵の努力ではダメです。続けることです。」
「命と健康を引き換えにしない程度に、努力を最大限にしないと
成功はしない。」と。深いです。玉三郎さんがご自身でされてきた
からこそ言える言葉ではないでしょうか。

それともう一つ、印象的な言葉をおっしゃっていました。
「悩みや問題は、自分自身で、徹底的につきつめて考えなければ
解決しない。」「自分がコンプレックスに思っていることを直視
すること。」「私は背が高いとか、足が悪いとうことから逃げたり
しなかった。美の観念を変えてもらおうと努力した。」

この言葉を聞いて、とても共感しました。僕はあまり人に悩みを
相談するタイプではないのですが、人にアドバイスを受けることは
いいと思っています。しかしあまり人の意見に左右されるのは、
どうかなあとも思っています。あの人がこう言ったからとか、
人の意見に依存しすぎると、すべてが他人まかせになったり、
責任感が生まれないと感じます。

あたりまえのことかも知れませんが、時々、俳優さんに限らず、
素晴らしいお仕事をされている方々の真摯なお話を聞くと、ハッと
気づかされることがあり、自分を振り返ることが出来るので
大好きなんです。若い方もたまに年上の方の話を聞くのも新鮮
ですよ。

最後にインタビュアーの鷲田教授が、玉三郎さんにこう質問
されました。
「今後どういった分野で女形を昇華させていきたいですか?」
玉三郎さんは少し間を置いて、こう答えられました。
「自分の若い時と比べて、新しい役柄に挑戦したいという気持ちに
衰えは感じませんが、やはり時の流れには逆らえません。でも、
もし肉体的・時間的に許されるのであれば沖縄の舞台芸術に挑戦
してみたいです」と。

まだまだ玉三郎さんの挑戦は続くようですね。楽しみです。