いよいよ、7月26日から8月11日まで、第33回オリンピック競技大会がフランス・パリを中心に開催されます。パリでオリンピックが開催されるのは1900年、1924年に続き3回目、本大会では、32競技329種目が実施され、開会式はパリ中心部を流れるセーヌ川が舞台となるんですよね。

 

前回のオリンピックは東京開催で、閉会式ではパリと日本をつなぐ歌として、フランスといえばシャンソンと言うことで、そのシャンソンの名曲『愛の讃歌』をシンガー・ソングライターmiletさんが、東京スカパラダイスオーケストラの演奏で歌い上げた姿は世界中から注目を浴びました。

 

さらに今年は“日本シャンソンの女王”と呼ばれた越路吹雪さんの生誕100周年!今日は『越路吹雪』さんのことを呟きたいと思います。

 

越路吹雪さん生誕100年を記念する企画展「生誕100年 越路吹雪衣装展」が早稲田大演劇博物館2階で行われています。演劇博物館は、新宿区西早稲田にある、早稲田大学早稲田キャンパス構内にあります。

 

越路吹雪さんは、男役として活躍されていた宝塚歌劇団時代から「ベストドレッサー」と称され、当時から雑誌でも服へのこだわりを語っていたといいます。

 

1953年に初めてフランスを訪れて以降は、パリの舞台やファッションに刺激を受け、後年の「ロングリサイタル」では「イブ・サンローラン」「ニナ・リッチ」などのドレスを着て舞台に上がり、その華麗な衣装の数々はファンの憧れの的でした。

 

企画展では、越路さんが身につけたドレスや靴、愛用したアクセサリー、香水が並ぶほか、最後の舞台となった「古風なコメディ」で演じた時の衣装も見ることができます。当時の映像やポスターなどの資料も展示しているそうです。8月4日まで開催中、入館は無料です。

 

神田神保町にある、昭和の懐かしい映画を中心に上映している名画座『神保町シアター』では、越路さん生誕100年を記念して、『稀代のスターを映画で辿る―― 銀幕の越路吹雪』が7月26日(金)まで開催中です。

 

①『プーサン』 昭和28年 白黒 監督:市川崑 共演:伊藤雄之助、八千草薫、小泉博、小林桂樹、三好栄子、杉葉子

 

②『恋化粧』 昭和30年 白黒 監督:本多猪四郎 共演:池部良、岡田茉莉子、小泉博、青山京子、藤原釜足、左卜全

 

③『吹けよ春風』 昭和28年 白黒 監督:谷口千吉 共演:三船敏郎、岡田茉莉子、小泉博、青山京子、小林桂樹、三國連太郎、山村聰

 

④『男嫌い』 昭和39年 カラー 監督:木下亮 共演:岸田今日子、淡路恵子、横山道代、坂本九、中尾ミエ、森雅之

 

今回はこの4本だけですが、僕が女優・越路吹雪に目覚めた作品は、女スリを演じた市川崑監督『足にさわった女(1952年)』、市川雷蔵さん演じる船場のボンボンの愛人の1人を演じた『ぼんち(1960年)』、森本薫の戯曲「華々しき一族」の映画化『愛人 (1953年)』、ワンシーンながら、強烈な印象を残す、成瀬巳喜男・川島雄三共同監督『夜の流れ(1960年)』ですかね〜。

 

『プーサン(1953年)』、『足にさわった女(1952年)』、『愛人 (1953年)』の3本は、市川崑監督の代表作に数えられる名作で、越路吹雪さんの堂々たる主演作なのに、今まで一度もDVD化も配信もされたことがないんです。CSでは放送されたことはありましたが…東宝さん、なんとかなりませんか?今年は、越路さん生誕100年のメモリヤルイヤーなのですから、検討をして欲しいと思います。

 

越路吹雪さん生誕100年を記念したリサイタル音源集CDボックスも発売されています。ボーナス・トラックには、越路さんの1960年代のNHK紅白歌合戦での歌唱音源集が収録されているんです。これらの音源は今回が初CD化だそうですよ。

 

リサイタルの音源は、越路さんの日生劇場のリサイタル中から全盛期とも云える歌唱力を示した1960年代のリサイタル全5タイトルをSHM-CDパッケージとしてリリース。 1965年から1980年の足掛け16年に渡る1ヶ月のロングランを毎回満席にした伝説の日生劇場リサイタル。その公演は当時LPレコードとしてほぼ年に一作リリースされていましたが、それぞれのアルバムが完全な形で復刻されたことは今まで一度もなかったんです。 

 

越路吹雪さんの偉業を後世に伝えるべく、特に豪華なフルオーケストラで開催された初期の日生劇場リサイタルシリーズが遂に高音質SHM-CDとなって登場しました〜。最高!

 

パッケージには、1969年の幻のリサイタル・パンフレットが復刻され封入され、1965~1968年のコンサートパンフレットに掲載された本人の挨拶文、秘蔵写真を集めたブックレットも付属。初回生産限定の永久保存盤です。

 

《収録内容》

◎DISC1・2:越路吹雪リサイタル 第10回1965年10月29~30日 日生劇場

◎DISC3:越路吹雪リサイタル 第11回1966年 4月5~6日 日生劇場 

◎DISC4・5:越路吹雪リサイタル 第13回1968年2月29日~3月2日  日生劇場 

◎DISC6:越路吹雪リサイタル 第1回ロング・リサイタル1968年7月4日~14日 日生劇場 EP「想い出のソレンツァラ」より~想い出のソレンツァラ / 白い太陽が昇ろうと / 猫とダンス NHK紅白歌合戦 歌唱集 

◎DISC7・8:越路吹雪リサイタル 第2回ロング・リサイタル 1969年5月1日~28日 日生劇場

 

【NHK紅白歌合戦 歌唱集】

◎家へ帰るのが怖い 1960年12月31日 第11回NHK紅白歌合戦より 

◎ラスト・ダンスは私に 1963年12月31日 第14回NHK紅白歌合戦より 

◎サン・トワ・マミー 1964年12月31日 第15回NHK紅白歌合戦より 

◎夜霧のしのび逢い 1965年12月31日 第16回NHK紅白歌合戦より 

◎夢の中に君がいる 1966年12月31日 第17回NHK紅白歌合戦より 

◎チャンスが欲しいの 1967年12月31日 第18回NHK紅白歌合戦より 

◎イカルスの星 1968年12月31日 第19回NHK紅白歌合戦より 

◎愛の讃歌 1969年12月31日 第20回NHK紅白歌合戦より

 

越路吹雪さんは、大正13年(1924年)に生まれ、戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手です。僕は世代的に、同時代に越路吹雪さんを体験していません。越路さんが胃癌のため急逝されたのは1980年。僕はまだ幼かったですから。

 

僕が越路吹雪さんという存在に接したきっかけは、父の影響で映画好きで、市川崑監督のファンでしたから、歌手としてではなく、映画女優としてでした。市川崑監督の『足にさわった女(1952年)』を初めて観た時は、日本にも身のこなしが艶やかで、バタ臭い(西洋風の)コメディエンヌがいたんだ〜と驚いたことと、父から聞いた「この人は元宝塚の男役トップスターで凄い人気だったんだよ」という言葉になるほど〜と感じたことなどを覚えています。

 

それから、越路吹雪という人に興味を持ち、古本屋さんで『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』(江森陽弘著・朝日新聞社)という本を見つけ、読んで、ますます好きになったんです。越路さんのことを書かれた本は何冊もあると思うのですが、その中でもこの本は断トツに良い本だと思います。

 

越路吹雪さんの人生は何度か映像化や舞台化されていますが、大体、この本を参考にされているのではないかなと思います。

 

僕が越路さんに興味を持ったのは、マネージャーとして最期まで支え、2013年に亡くなるまで、訳詞・作詞家として現役で活躍されていた岩谷時子さんの存在も大きいです。

 

僕は昭和歌謡が大好きで、このBlogでも度々書いていますし、影響を受けたような拙い詩も書いてますし、カラオケで昭和歌謡ばかり歌っている男なので、作詞家・岩谷時子さんの書かれた曲は大好きですし、人としての人生の全うの仕方も尊敬していますから。

 

越路さんがが15歳の頃、宝塚出版部に勤めていた岩谷さんと知り合い意気投合し、その後、越路さんが宝塚を辞めた際に岩谷さんも一緒に退社され、共に上京。東宝に所属し、岩谷さんは東宝の社員として籍を置いたまま越路さんのマネージャーも務めてらしたんです。

 

越路さんが出演していたシャンソンショーの劇中歌として『愛の讃歌』を歌うことになり、「日本語でしか歌いたくない」という越路さんの要望と、「あなた出版部にいたんだから詩くらい書けるよね?」という越路さんの求めに応じ、岩谷さんが初めて訳詞されたのが『愛の讃歌』なんです。

 

 

僕はこの『愛の讃歌』が今まで聴いた中て最高の『愛の讃歌』だと思っています。

 

エディット・ピアフが歌った『愛の讃歌』は、歌詞が「愛を貫くためなら盗みでも祖国への裏切りでもしてみせる」という道徳に背くほど愛に身を焦がすような情熱的な内容だったので、岩谷さんは「これは越路吹雪のキャラクターにはそぐわない」と感じ、普遍的な男女の恋だけでなく、もっと広い意味での一途な愛を貫くという歌を越路さんには歌って欲しいと思い、この歌詞になったんだといいます。

 

この岩谷時子さんの『愛の讃歌』がお気に召さないのが美輪明宏さんなんですね〜。美輪さんも『愛の讃歌』を歌ってらっしゃるし、美輪さんは原曲の詩を大切にされているのです。いつも私が歌うのが本当の『愛の讃歌』ですと言われてますからね。

 

どちらが良いというのは聴かれた方の好みですけど、僕は『愛の讃歌』は岩谷さん訳詞、越路さんが歌われる『愛の讃歌』が大好きです。岩谷さんの詩は、男女の恋愛に限定されてないですよね?男同士でも女同士でも愛し合っている人が聴くと本当に心を震わされる歌なんですよ。僕なんか泣けて歌えなくなっちゃいます。

 

『愛の讃歌』が大ヒットとなり、越路さんの求めに応じて岩谷さんは、シャンソンなど外国曲の訳詞を担当。越路の代表曲である『ラストダンスは私に』『サン・トワ・マミー』『ろくでなし』などは、岩谷さんの優れた訳詞によりヒットへ導かれました。これをきっかけに他の歌手からの作詞依頼も増え、岩谷さんは作詞家としての地位も確立されてゆきます。

 

同時に、越路さんが亡くなるまで約30年間に渡りマネージャーを務めた岩谷さんですが、「越路のことが好きで支えていた」と語り、マネージャーとしての報酬は一切受け取っていなかったとおっしゃっていました。越路さんのステージでの衣装代、パリへの旅費など大半は、岩谷さんの作詞の印税で賄われていたのではないでしょうか。『献身』という言葉がこれほど似合う方はいないと思います。

 

越路さんが日本語で歌いたいと言ったのは、フランス語で歌っても、言葉がわからない日本人の心には決して届くはずがないと越路さんは思ってらしたからです。日本語で日本人に聴かせるための私流のシャンソンを歌いたいと常に努力をされていたのだと思います。

 

越路さんがが初めてフランスに一人旅をしたのが28歳の時。その際に送ってきた手紙にはこう書かれていたそうです。

 

「私は日に二、三回ずつ腹を立て、毎日パリの何かしらに抵抗し、自分の何かしらと闘って過ごしています。このまま長くパリにいてキャバレー歌手になって暮そうかと思うけれど、フランスのシャンソンはフランスだけのもの。そのメロディーは世界で歌われていても、フランス人の歌うシャンソンは彼らの生活から生まれた歌なんだからフランスだけのものよ。」

 

この時の想いが、日本人にシャンソンというものを知ってもらうには、日本語で歌うしかないと誓われたきっかけなのではと思います。越路さんだって、フランス語が堪能だった訳ではないでしょうし、フランス語で歌う歌手を目の前にしてもピンとこなかったのかもしれません。

 

昔は映画音楽にも日本語の訳詞があり、当時の歌手の方はこぞって歌っていました。「ある愛の詩」「シェルブールの雨傘」「ゴッド・ファーザー・愛のテーマ」などなど…だから今でも聴いた人の心に残っているのではないでしょうか。

 

その後、何度もパリへ足を運んだ越路さんは、本場のシャンソンに刺激を受けながら、自己流のシャンソンを求め試行錯誤をくり返し、歌に磨きをかけてゆくのです。

 

そんな姿を一番身近で見ていた岩谷さんは、当時のことをこう振り返ってらっしゃいます。

 

「彼女が本格的にシャンソンを唄おうとしたのは、1953年にエディット・ピアフの歌を聴いてからです。当時、ピアフはパリで全盛期を迎えていました。ピアフとの出会いが越路吹雪という歌手の人生に重い意味を持たせたと言ってもいいでしょう。」

 

バリで本場のシャンソンを聴いても、「ピンとこない。歌を喜びとする私がシャンソンを聴いてもピンとこないとは…。どれを見てもフィーリングなし。」と言っていた越路さんですが、ピアフの歌を初めて聴いた時、「オーケストラの良さ、彼女の歌う時のジェスチャー、曲のアレンジの素晴らしさに私は悲しむ。パリの良さが少しずつわかってきた!」と興奮されているのです。

 

2回目にピアフの歌を聴いた時のショックを越路さんは書き残しています。

 

「ピアフを二度聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、淋しい、私には何もない。私は負けた。泣く…初めてパリで。」

 

この言葉は有名ですよね

 

以来、彼女はパリに行くたびにピアフの舞台を観たそうです。ピアフが晩年、ドラッグの為、肉体も声も衰えてしまった時期まで…最後の最後まで客席で見届けたといいます。越路さんはどんな想いだったのでしょうか。

 

1971年の11月、日生劇場で初のドラマティックリサイタル『エディット・ピアフの生涯』で、越路さんがピアフを演じることとなります。この作品で初めて演出家・浅利慶太(劇団四季の創設者の一人)さんと出会います。

 

浅利さんは、越路さんを「シャントゥーズ・レアリスト(真実を歌う歌手)」と評し、心の中の愛や悲しみ、祈りを見事に歌う歌手、感性の中にものすごいひらめきと知的な部分を持っている人であったと語っています。

 

僕は残された過去の映像の中でしか越路吹雪さんを観たことがありませんが、浅利さんの言うような「心の中の愛や悲しみ、祈りを見事に歌う歌手」と言う表現に心から共感しています。

 

岩谷さんは、浅利さんが越路さんに一つ一つの歌の意味を教えドラマとして作り上げていく過程を振り返り、「浅利と越路は芸術家として心が深く通い合っていた」こと、「浅利との仕事が越路の人生で最高の時であった」と回顧されていました。

 

時代もあるのでしょうが、このステージの映像が残されていないということが本当に残念に思います。当時の関係者の方の誰かが持っているのかもしれませんが観てみたかったなぁと思います。

 

越路さんは、お客様に最高のステージを見ていただく為に、コンディション調整を欠かさなかったそうです。舞台に上がる時間から逆算し、起床時間、食事の時間、劇場入りの時間などを決定し、全ステージを見据えた生活リズムをとるため、何月に舞台があり、その稽古は何日前からか、それには何kg増やしておくか等々、一年を通じて舞台の為の日常を過ごすことを常としていたんだそうです。

 

 

何度聴いても、素晴らしい

 

真のプロフェッショナルとはこう言う人のことを言うのだと深く感銘を受けています。

 

越路さんが胃がんで入院した後も、もう一度舞台に立たせたいと強く願っていた岩谷さんは、越路さんから睡眠薬とタバコをやめさせることに必死でした。越路さんは若い頃よりヘビー・スモーカーで、タバコが常に手放せない人で、「徹子の部屋」出演時も吸ってましたね。不眠症気味で睡眠薬が毎晩手離せない人だったようです。そんな生活では胃も荒れてしまいますよね。

 

それにもかかわらず、越路さんの夫の内藤法美さんは、越路さんが病床でタバコを吸っていても大目に見ていたんです。もう好きにさせてあげようと思っていたのかもしれませんが、「今の越路吹雪には厳しい愛が必要」と考えていた岩谷さんにとって、これは許しがたいことであり、3度目の入院を前に岩谷さんは越路さんのもとを訪れ「内藤さん、あなた(越路に)甘いんじゃないの。あなたもあなたよ。睡眠薬もタバコもやめなけりゃあ、胃の痛みは治らないって、お医者さまもおっしゃったでしょう。もし、あなたが私のいうこと守れなかったら、私はあなたの仕事から一切手を引かせてもらうわ」と説得し、その日から越路さんは睡眠薬とタバコをやめたといいます。

 

僕はこのエピソードもとても好きなんです。もう余命幾日と宣告されていたとしても、本人のために、激しくキツめにダメなものはダメと言い聞かせた岩谷さんの友情といいうか愛情というものの大きさを感じるのです。

 

NHKには『ビッグ・ショー』や『思い出のメロディー』など越路さんが歌う綺麗な映像が保存されているはずなので、生誕100年を記念して特集番組を作ってもらいたいと思います。NHKさんよろしく〜。