つい最近、行きつけの古本屋さんにフラフラと立ち寄ったら、アン・エドワーズ著、清水俊二訳『ヴィヴィアン・リー』1980年初版を見つけました。
スーパーリアルイラストレーションと呼ばれた、山口はるみさんの手による、ヴィヴィアン・リーのイラストが描かれたカバーイラストが印象的な評伝です。もう亡くなられてしまいましたが、イラストレーター、グラフィックデザイナー、エッセイスト、映画監督と多彩な顔をお持ちだった和田誠さんがレイアウトをされています。
この本は、高校生の時に一度読んでいて、僕に『評伝』というジャンルの扉を開いてくれた名著で、心に残っていた本なんです。
僕はもう両親も他界して、実家も整理してありませんので、当時の本やビデオやパンフレット等、手元に残っていないものが多数あり、この本ももうなかったものですから、懐かしくて買ってしまいました。
久しぶりに読み、大好きな女優の一人『ヴィヴィアン・リー』の人生をあらためて辿ってみて、感じたことがあったので今日は『ヴィヴィアン・リー』のことを少し呟きたいと思います。
僕が初めて『ヴィヴィアン・リー』という名前に触れたのは、中学生の時にリバイバル上映で観た『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役でした。そういう方は多いと思いますね。
まず『ヴィヴィアン・リー』という名前の美しい響きに惹かれましたねー。端正な顔立ち、古典的な気品、そして現れた瞬間にその場の空気を支配する存在感…
しかしその美しさは祝福であると同時に、彼女を縛る檻でもあったんだと今となっては感じます。ヴィヴィアン・リーの人生は、常に期待され、見つめられ、消費させられることの連続だったのだと思います。
『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ役は、彼女に世界的な名声をもたらしました。強くて、自己中心的で、決して折れない女性…。この成功は世界中から称賛を受け、彼女を女優として頂点に押し上げると同時に『スカーレット女優』という役割に彼女を閉じ込めてもしまったんです。
ヴィヴィアンは、ローレンス・オリヴィエとの結婚がありました。ローレンス・オリヴィエはシェイクスピア俳優として有名なイギリスの俳優で、映画監督でもあります。米国アカデミー賞も受賞し、貴族の称号も持つ20世紀の名優として多くの映画人から称賛される方です。
二人の恋はお互い不倫から始まったものですが、世界最高峰の俳優同士による、理想的とも思える結びつきは、運命と呼べるものだったような気がします。
舞台と映画、情熱と野心を共有した二人は、互いを高め合う存在だったのだと思いますが、ヴィヴィアンは、妻である前に女優でありすぎたんじゃないでしょうか。そして彼女の内面に潜む不安定さは、オリヴィエの愛だけでは支えきれないものだったように感じます。
ヴィヴィアンは、双極性障害を抱えていたことは知られています。躁と鬱の波、激しい感情、衝動的な行動…。それがローレンス・オリヴィエを疲労させたのは事実なんでしょう。
結局は二人は別れを選択するのですが、でも僕はオリヴィエは最初から彼女の脆さを知っていて愛したんだと思っています。
オリヴィエが別れを選んだ原因は、病を抱えるヴィヴィアンと一緒に生き続ける覚悟を彼が持ち続けられなかったことだと思うのです。
二人は最初は、演劇への執念、名声への渇望、完璧であろうとする姿勢を共有していたと思うんです。でも次第にズレが生じたのではないでしょうか。
ローレンス・オリヴィエほどの名優になれば、俳優としての仕事に人生の全てを賭けているわけですし、そこに精神の安定を求めていたんだと思うんです。
ヴィヴィアンは、そんなオリヴィエに憧れ、尊敬し、自分も彼と常に同じ立場で同じ舞台に立ちたいと願っていたけれど、それと同等にヴィヴィアンにとって『愛』して欲しいという想いも強かったんだと思います。同じ舞台に立っていると信じてはいましたが、二人は違う風景を見ていたように思います。
そんな二人の心のズレが少しつづヴィヴィアンの心を傷つけていったのではないでしょうか。
次第にヴィヴィアンの精神疾患の症状は酷くなり、オリヴィエは、夫、俳優、支え手の全てを同時に演じ続けることに限界を迎えたんでしょうね。
これはオリヴィエだけを責めるのはかわいそうだと思います。どちらかの裏切りによるものではない、愛が足りなかったのでもない…。そこが辛いですよね。
オリヴィエは去り、ヴィヴィアンは一人残されたのです。
ヴィヴィアンはオリヴィエからの別れを受け入れますが、ヴィヴィアンにとってそれは「愛の終了」ではなく、「存在の否定」だったんだと思います。オリヴィエは前を向き、ヴィヴィアンは立ち止まり、やがて「漂う」ようになったのかもしれません。
アン・エドワーズの書いた評伝は、資料としては決定打ではないけれど、綿密な取材と証言をもとにして描かれていると思います。
精神疾患(双極性障害)を美談にしていないし、オリヴィエとの関係をロマンに寄せすぎずシビアに描いていますし、現場でのヴィヴィアンの「プロ意識」「扱いづらさ」を隠さない。つまり神話化されたヴィヴィアン像を一度、地面に引き戻した功績は大きいのかなと思います。
初めてこの本を読んだ時は、感受性が豊かな頃だったので、驚くことばかりでしたけど、双極性障害という言葉も今ではよく聞く言葉になりましたしね。
誰かを深く愛することと、その人の不安定さや病と「一生一緒に生きる」ことは、同じじゃないんでしょうね。オリヴィエは冷酷だったわけじゃないと思いますし、ヴィヴィアンから逃げたわけでもないと思います。それを引き受けられなかったことは罪ではないし、誰も責められないと思います。
しかもオリヴィエは、舞台に立ち続ける人間だったのですから、集中力、規律、自己管理を怠れない環境ですし、そこに常に感情を乱される嵐を抱えた生活が重なることに限界が来たのだと思います。
ヴィヴィアンは女優である前に、愛されている実感がなければ自分という輪郭を保てない人だったのではないでしょうか。オリヴィエとの別れは、ただの離婚というよりは、世界から切り離される感覚だったのではと思います。孤独という闇に落ちたという感じですかね。
僕がこの本を初めて読んだ時、一番衝撃を受けたのは、翻訳をされた清水俊二さんの「あとがき」を読んだ時です。
こう書いてあります。
「ヴィヴィアンはしばしば躁鬱病の発作に苦しんでいた。ニンフォマニアの症状があらわれるとセックスの欲望を抑えることができなかった」と…。
ローレンス・オリヴィエも自伝で書いていますが、ニンフォマニアとは日本語で「色情狂」のことです。昔、これが病であると認識されなかった時代には「色キチガイ」「色狂い」などと呼ばれ、人を蔑む言葉として使われてきました。
色情狂は、性欲が異常に高まった状態を指す精神医学用語「色情症」の別名です。この状態は、気分障害の一種である躁病状態や、脳の器質的障害、薬物依存などによって引き起こされることがあるれっきとした病名なので、誤解しないでもらいたいと思います。
久しぶりにこの評伝を読み返して、初めて読んだ頃にはわからなかった、年齢を自分自身も重ねたからでしょうか、ローレンス・オリヴィエの男としてのヴィヴィアンへの想いが理解できたように感じます。
でも、評伝を読んだからヴィヴィアンの全てを理解できたとは感じないんです。やはりヴィヴィアンが残した作品の数々を観ないと彼女が生涯、何を求め、何から逃げ、何に縋っていたのかは彼女自身の演技の中にしか見出せないと思い、オリヴィエと別れた後に主演した、作者のテネシー・ウィリアムズが自身の作品の映画化されたものの中で一番好きだと公言し、この映画はまさに「一遍の詩」だと思うと語る作品、僕も大好きな『ローマの哀愁』(1961年 )を最後に紹介したいと思います。
『ローマの哀愁』(1961年 )
《スタッフ》
◎監督:ホセ・キンテーロ
◎原作:テネシー・ウィリアムズ
◎製作:ルイ・ド・ロシュモン
◎脚本:ギャヴィン・ランバート
◎音楽:リチャード・アディンセル
◎撮影:ハリー・ワックスマン
◎編集:ラルフ・ケンプレン
◎美術:ハーバート・スミス
◎装置:ジョン・ジャーヴィス
◎衣装:ピエール・バルマン、ベアトリス・ドーソン
《キャスト》
◎ヴィヴィアン・リー
◎ウォーレン・ベイティ
◎ロッテ・レーニャ
《ストーリー》
ワシントンのある劇場の楽屋では、かつての人気女優カレン・ストーン(ヴィヴィアン・リー)が、舞台の不評と鏡に映る衰えた容姿を見つめて悲嘆し、女優をやめることを決心します。心臓に疾患を持つカレンの夫は、自らの静養のため、そして傷ついた妻を癒すため、二人で休暇をとろうとローマへ向かいますが夫は飛行機内で心臓発作を起こし、死んでしまいます。一人、ローマに到着したカレンは、夫の莫大な遺産を相続し、景色の良い豪華なアパートに住み始めます。
美しいイタリア青年を紹介し、青年を通じて金を巻き上げるという、ポン引きまがいのことをして生活をしている伯爵夫人コンテッサ(ロッテ・レーニャ)がカレンの存在を見逃すはずもなく、彼女にとびきりの美しい青年を紹介しようと近づきます。
伯爵夫人から若い男、パオロを紹介されますが、年の離れた夫とはほとんど性的関係を持つことがなかったカレンは、青年を送り込まれてもそういった興味は示さず、関係を持つ代償に金を要求しようとする下心にむしろ不快感を覚えるのです。
一方、カレンのアパートの前の広場には、ボロをまとった浮浪者風情の若い男が可憐の部屋を見上げています。この男は、カレンが外出するとその後をつけ、じっとカレンを見つめ続けるのです。カレンは気になっていましたが相手にはしまん。
パオロのことは、はじめは用心して受け入れなかったカレンでしたが、やがて食事などを共にするようになり、次第に惹かれていくのです。 コンテッサは、付き合い出して2ヵ月経ってもまだお金を取れないパオロを責め、カレンには、パオロはイタリア語でマルケッタと呼ぶ男娼であることを告げるのです。そして、お金を取られただけで結局関係を持てなかったある金持ち女の二の舞にならないようにと忠告し、パオロがどんな話をしてお金を要求してくるか、その手の内を明かすのでした。 その日に久々にパオロと会うと、パオロは悲痛な面持ちでコンテッサの入れ知恵通りの話をして、友人を助けるためにカレンにお金を出してほしいと頼んできます。その話はコンテッサに聞かされた話と全く同じ話でした。カレンは、自分はその金持ち女とは違うのだと言い残し、一人寝室に入ってしまいます。パオロはしばし考え、結局、寝室へ行き、二人は初めて関係を持つのでした。
その日以来、カレンはパオロとの関係にどんどんはまっていくのでした。友人たちがローマまで訪ねてきて、カレンのために書いた新作でブロードウェイへの復帰を促しますが、カレンはローマに居たいがために断ってしまうのです。 また、若く見せようと髪を短くしたり。明るい色に染めたり、華美な宝石や衣服で自分を飾り立てるようになっていきます。
パオロにぞっこんのカレンですが、パオロのために高級なスーツ一式を仕立てたりはするものの、いっこうにお金を支払う気配はありません。生活に窮したコンテッサは自らカレンのもとへお金の無心に行きますが、思うような額を得ることができず苛立つばかり。お金を持ってこないパオロを責め、カレンよりもお金になりそうな若い女優を紹介しようと持ちかけるのです。
即答しないパオロに、カレンを相手にしているなんてローマ中の笑い者だと言い、早くなんとかしないとパオロも落ちぶれていくと警告します。 それでも、カレンとの関係を続けていたパオロでしたが、ある夜、カレンの若い女優への嫉妬から、二人は言い争いになってしまいます。そしてコンテッサが連れてきた新しいカモである若い映画スターの登場を機に、パオロはついに別れ話を持ち出します。約束したのに友人を助けるお金を出してくれなかったとカレンをなじり、50歳の女性と自分がつきあったのは金のためだけだと言い放つのです。 二人の別れは決定的なものとなり、パオロは荷物をまとめてカレンのアパートを出て行きます。 一人になったカレンはある決意をするのです。
カレンはアパートの鍵をハンカチで包み、バルコニーから自分をつけ回す若い男の元へ落とします。常にカレンの後をつけ、アパートの近くに潜み、カレンを見続け求め続けてき若い男は鍵を拾い、ゆっくりとアパートの中へと入って行くのでした…。
『ローマの哀愁』は、「ガラスの動物園」「欲望という名の電車」「熱いトタン屋根の猫」などで知られるアメリカの戯曲作家テネシー・ウィリアムズの小説「ストーン夫人のローマの春」The Roman Spring of Mrs. Stone の映画化です。
テネシー・ウィリアムズは、アメリカを代表する劇作家の一人で、優れた詩人、小説家でもありました。1948年には『欲望という名の電車』で、1955年には『熱いトタン屋根の猫』でピューリツァー賞を受賞しています。僕の大好きな劇作家の一人です。
同性愛者だったことで知られていますね。秘書のフランク・マーロとの関係は、出会った1947年から1963年の癌によるマーロの死まで続き、彼が亡くなった後は、死や孤独に対する恐怖からアルコールやドラッグが手放せない生活になり、破滅的な人生を送るようになります。彼の作品にはどこか、同性しか愛せない者の痛みが表現されているように感じます。
『ストーン夫人のローマの春』は、戯曲ではなく小説ですが、詩情に満ち、美しいイメージで埋め尽くされた作品です。心から愛していた夫が他界し、ローマにひとり居を構えたアメリカの元女優ストーン夫人が、若く美しい男と出逢い、性に目覚め、溺れ、破綻をきたしていく…。
ウィリアムズは、愛する者の喪失がどれほど多大な影響を人間に及ぼすかを身をもって知っていた人です。その感覚が、共感の眼差しと詩的な描写力となって、夫なき後のストーン夫人の孤独、危うさ、脆さを緻密な描写力によって描き込まれています。
ウィリアムズは、グレタ・ガルボを想定して書いたと言われていますが、映画化への想いは、1961年、ヴィヴィアン・リー、ロッテ・レーニヤ、ウォーレン・ベイティ主演という形で実りました。
ウィリアムズが活躍した時代は、性的な描写がまだまだタブーだった時代です。性について語り合うことすら敬遠された時代でしたから、言いたいことが言えない、どこか表現にもどかしいところもあるのですが、それを理解して観ると、現実と理想の間でもがき苦しむ登場人物たちの心の痛みや葛藤がじんわり染みてくるのではと思います。
『ローマの哀愁』で、ヴィヴィアンがカレン・ストーンを演じることが発表されたのは、オリビエとの離婚判決があった2日前だそうです。傷心の彼女を救ったのは仕事だったのです。
ローマでのロケイション撮影の予定でしたが、イタリーの検閲機関が脚本の内容に文句をつけたため、イギリスの撮影所で制作されました。
この映画で彼女が演じるのは、かつて名声を誇った女優、カレン・ストーン。老いて、若さを失い、愛にしがみつくように生きる女性。
原作者のテネシー・ウイリアムズは、一貫して、壊れゆく人、老いやに孤独に怯える人、何かに依存しなければ生きられない人、社会からこぼれ落ちてゆく名もなき存在を描き続けた作家だと思います。自分自身の投影だったと言われていますね。
そして何より重要なのは、彼は「明るい太陽の下を歩く、強い女性」ではなく、「闇を漂い、破滅してゆく女性」を書いた作家だということです。
撮影当時、ヴィヴィアンは48歳。今から思えばまだまだ若いじゃない?と思いますが、当時の映画界ではもう老醜とまで言われることもあったようです。
でも、ピエール・バルマンの衣装に身を包んだ『ローマの哀愁』のヴィヴィアンはとても美しいですよ。哀しみを抱えた人だけが持つ、今にも壊れそうな魂の叫びが聞こえてくるような美しさです。
ヴィヴィアンの側には愛した人、ローレンス・オリヴィエはもういない。代わりにいるのは止まったような時間と孤独、そして避けられない現実だけ…。それでも彼女は、自身の人生がそのまま映し出されたようなこの役を引き受けたのです。
テネシー・ウイリアムズにとって、ヴィヴィアン・リーは特別な女優でした。『欲望という名の電車』の映画版は、ブランチ・デュボアをヴィヴィアンが演じたからこそ、名作になり得たわけですから、ウイリアムズはヴィヴィアンに絶対の信頼を置いていました。
『欲望という名の電車』のブランチ・デュボアも、『ローマの哀愁』のカレン・ストーンもどちらも老いと孤独に追い詰められる女性です。
ブランチ・デュボアは、幻想にしがみつける女、カレン・ストーンは、幻想すらはぎ取られた女のような気がします。
ウイリアムズは、ヴィヴィアンの美しさの裏にある「崩れやすさ」を最初から見抜いていた作家だったのかも知れません。ヴィヴィアンは彼の書いた壊れやすい魂を最も正確に体現できる女優だったのではないでしょうか。
テネシー・ウィリアムズの作品は、主人公に救済を与えない。観客に同情の逃げ道を作らない。美しいものほど、容赦無く叩き潰す…。ハッピーエンドしか認めない人には、ただ単に暗くて重くて観るのも辛い物語かも知れませんが、僕はそんな救いのなさが魅力的に感じてしまうのです。人生は思い通りにはいかない、楽しいことばかりじゃないということは少しは経験して知っている者ですから。
ヴィヴィアン・リーは、自分の人生そのものを題材にしてしまったような物語『ローマの哀愁』のオファーを拒むこともできたはずです。それでも引き受けた…。
テネシー・ウィリアムズとの強い信頼関係があったからかも知れませんが、自分の老いと孤独を、作品として差し出せたのはヴィヴィアン・リーが真の女優だったからだと思います。この後に及んで何を隠すことがあるの?恥ずかしいことなど何もないという、ウィリアムズとヴィヴィアンによる残酷なまでに誠実な共犯関係のような気がします。
映画の中で、カレンは何度か「私は漂っている」という印象的な言葉を口にします。有名女優だった、大富豪の妻であった、社会的にも名の知れた存在だった…。全て過去形なんですね。物語が始まってすぐに彼女はどの社会にも属していない、役割も何も担っていない完全なただの一人の裕福な女性として登場します。
「漂っている」というのは、毎日、何か目的を持って生きているわけではなく、どこにも属さず、時間とお金を持て余し、フラフラと生きている状態のことなんでしょうね。
ただ波のない水の上に浮いていて、沈むことも許されず、溺れて死ぬこともできず、岸にも上がれない…。いつまでも目的地が見つからない、こんな孤独って耐えられますか?
テネシーウィリアムズの描く人物は、欲望にしがみつきたい、でも尊厳は失いたくない、この二つの間で葛藤しています。カレンも同じです。若い男を求めることは、生きている実感に繋がる。でもそれが自分を安くしてしまうことも彼女は知っている、だから前にも後ろにも進めない、それを『漂う』と表現しているのかなとも思います。
テネシー・ウィリアムズは、ヴィヴィアン・リーに『美のその後』を描き与えた、そしてヴィヴィアン・リーはその答えを逃げずに演じきったのです。
ヴィヴィアン演じるカレンに近づく、若い男・パオロを演じたのはウォーレン・ベイティです。デビューしてまもない頃です。
カレンに、愛を与える存在でも、救済者でも、運命の相手でもない、老いと孤独につけ込む「構造」そのものを擬人化したような存在です。
作者はパオロを人格というより役割として配置していると思います。ローマの街に無数にいる若者の一人。欲望はあるが感情は希薄…。老いた女性が抱く幻想の投影先として設計されているのに過ぎない存在です。
パオロを演じたウォーレン・ビィーティーは美男ですが、知的さに乏しい中身が空白な感じの若者を上手く表現していると思います。
デビューまもない作品なので演技力が足りないと思われがちですが、違うんです。感情を抑制した彼なりの演技設計なのです。ヴィヴィアン・リーという大女優を相手に相当緊張したそうですが…。
表情はあるが、心は見せない。近づくが決して踏み込まない。触れるが繋がったりしない。これを意図的にやっているのです。パオロという「役割」を割り切って演じているのです。パオロは感情を持たない器なのですから。
老いた女の感情は重く、若い男の欲望は軽いんだと作者のテネシー・ウィリアムズは言っているように感じます。
ウォーレン・ベイティが演じたパオロは根っからの残酷な男ではありません。ただ若いというだけの存在。カレンを傷つけたとは思っていない。本人は何も感じていないのです。若さゆえの残酷さとでも言いますか…。
カレンは間違ったことはしていません。ただ愛されたいと思った、まだ女性でありたいと願った、孤独から逃れたかった、ただそれだけなのです。しかし、社会は老いた女性の欲望を容赦無く利用するのです…。
ヴィヴィアン・リーもまた若さと美を失いつつある女優でした。スクリーンの内外で「見られる存在」から降りたくても降りられなかったのでしょう。
テネシー・ウィリアムズはパオロが改心することも真実の愛が芽生えることも希望に転ぶことも一切させない。彼がカレンの元を去ることで物語が完成するという残酷さは好みが分かれるところですね。
『ローマの哀愁』のラストは別れでも旅立ちでもありません。観るものに問いかけて終わります。
カレンはこれまで自分につきまとっていた謎の若い男を気味悪がっていましたが、次第に気になり始めていました。彼はパオロとは違い、愛人でもなければ、約束された関係でもない。ただ彼女の孤独と弱さを嗅ぎ取った存在…。
カレンはその男に向かってバルコニーから鍵を投げるのです。この行為は恋の選択ではありません。テネシーが描いているのは、欲望ですらなく「孤独への降伏」のような気がします。
カレンは、その男が優しいのか残酷なのか、救いになるのか、破滅なのかを知らない。それでも鍵を投げる。なぜなら一人で夜を超えることがもう耐えられないから…。ここで映画は答えを与えない。男が部屋に入ってくる。そして暗転…。カレンがどうなるのか、救われるのか、搾取されるのか、あるいは何も変わらないのかそれは描かれません。
テネシーは女性の老いを「美しく昇華」などしない。彼が描くのは尊厳と孤独が同時に崩れてゆく瞬間なのです。
パオロとの関係はまだ幻想だった。しかしラストの若い男には幻想すらない。あるのは、金、身体、孤独、そして沈黙の取引だけなのです。このラストが残酷なのは、カレンが被害者として描かれていない点です。彼女は自分で鍵をなげた。自分の意思で扉を開いた。だからこそ、観る者は「問」を突きつけられる。もし自分が彼女だったら、その夜、鍵をなげずにいられるだろうかと…。
ラストで謎の男に鍵を投げる行為は突然の転落じゃない。それは、もう流れに逆らう力がないと自覚した人間の静かな選択だと思います。もう漂いたくない、カレンは生きている理由を失ったのではと感じます。
『ローマの哀愁』の悲しみは、老いそのものではなく、老いてしまったことによって、人が自分を諦めてしまう瞬間をテネシー・ウィリアムズが一切の情けを拝して描いたところにあると思います。
『ローマの哀愁』を監督したのは、1950年代オフ・ブロードウェー演劇の中心的存在となったサークル・イン・ザ・スクエア の創設者の1人で演出家のホセ・キンテーロです。映画はこの一作しか撮っていないようですが、ブロードウェーでは不評であった テネシー・ウィリアムズの『夏と煙』の再演 (1952年) で成功を収め、テネシー・ウィリアムズと友情を深め、『ローマの哀愁』の監督に抜擢されたようです。初監督にしてはとても良い作品に仕上がっていますね。
晩年、ヴィヴィアン・リーの最期に寄り添ったのは、7歳年下の俳優、ジャック・メリヴェールです。彼は彼女を伝説としてではなく、病を抱え、弱さを持つ一人の女性として受け止めたのです。
オリヴィエとの関係が情熱と創作の結晶だったとするなら、メリヴェールとの関係は、名もなき日常でした。だがその日常こそが、彼女にとって最も必要なものだったのかもしれないですね。
演技に全てを捧げ『ローマの哀愁』で人生の孤独をさらけ出したヴィヴィアンは、メリヴェールという安らぎの隣で静かに役を降り、幕を下ろすことができたのではないでしょうか。
メリヴェールは、うつ伏せに床に倒れ、息をしていないヴィヴィアンを発見して抱き起こし、何度も何度も口から口へ息を吹き込んで蘇生を試みたそうです。
これを知った時、僕は泣きそうになりました。愛するってこういうことじゃない?って。
『ローマの哀愁』は、もっと評価されていい作品です。











