『セルロイド・クローゼット』〈The Celluloid Closet〉という映画があります。

 

1995年9月に開催された第20回トロント国際映画祭において初上映された、ハリウッドの映画史において性的少数者/LGBT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、トランスジェンダー) はどのように描かれてきたのか?。その知られざる痛みと苦しみの歴史を豊富な実例と関係者たちの多彩なインタビューを通して検証したドキュメンタリーです。

 

日本での公開当時、僕たち同性愛者の間では話題になっていて、僕も観た一人です。今、WOWOWオンデマンドで配信されていて、久しぶりに再鑑賞しました。

 

初公開時から年月も経ち、同性愛者に対する偏見はなくなくってはいないけれど、世の中の状況も少しづつ変わってきている気もするし、僕も年齢を重ねて、若い時には見えなかったものも見えてきたし、目を背けてきたものにも目を向けるようになりましたし、呼ばれているのに耳を塞いでいたこと、大事な事柄に気付かぬふりをして通り過ぎることも無くなりました。

 

タイトルの『セルロイド・クローゼット』にはフィルム保管場所と偏見と差別から身を守るための逃げ場所という2つの意味があると言われています。触れること、口にすることすらタブーとされてきた「クローゼット」を開け放ち、映画と共に歩んできたアメリカの文化、政治、時代の流れをも描きだした貴重なドキュメンタリーだと思います。

 

『セルロイド・クローゼット』

◎原題/The Celluloid Closet

◎制作年/1995年

◎制作国/アメリカ

〈スタッフ〉

◎監督:ロバート・エプスタイン/ジェフリー・フリードマン

◎製作総指揮:ヒュー・ヘフナー ほか

◎製作:ロバート・エプスタイン/ジェフリー・フリードマン

◎原作・脚本:ヴィト・ルッソ

◎脚本:ロバート・エプスタイン/ジェフリー・フリードマン ほか

◎撮影:ナンシー・シュライバー

◎音楽:カーター・バーウェル

〈出演者〉

◎ナレーター:リリー・トムリン:俳優

以下はインタビュー形式による出演

◎ジェイ・プレッソン・アレン: 脚本家

◎ゴア・ヴィダル:劇作家・評論家

◎ジャン・オクセンバーグ :作家

◎トニー・カーティス :俳優

◎クエンティン・クリスプ:作家

◎ファーリー・グレンジャー:俳優

◎マート・クロウリー :劇作家

◎ウーピー・ゴールドバーグ:俳優

◎スーザン・サランドン:俳優

◎バリー・サンドラー - 脚本家

◎ジョン・シュレシンジャー:映画監督

◎スチュアート・スターン:脚本家

◎リチャード・ダイヤー:評論家

◎ロン・ナイスワーナー:脚本家

◎ハリー・ハムリン:俳優

◎トム・ハンクス:俳優

◎ハーヴェイ・ファイアスタイン:俳優・脚本家

◎アントニオ・ファーガス:俳優

◎スージー・ブライト:作家

◎シャーリー・マクレーン:俳優

◎ダニエル・メルニック: 演出家

◎アーミステッド・モーピン:作家

◎ポール・ラドニック:脚本家

◎アーサー・ローレンツ:劇作家・脚本家・演出家

〈登場する映画作品〉

◎愛と青春の旅だち (1982年)◎赤い河 (1948年)◎赤ちゃん教育 (1938年)◎明日に向って撃て!(1969年)◎熱いトタン屋根の猫(1958年)◎アナザー・カントリー (1983年)◎甘い抱擁 (1968年)◎ウェディング・バンケット (1993年)◎ウォリアーズ (1979年)◎失われた週末 (1945年)◎噂の二人 (1961年)◎エドワードII(1991年)◎エミリーの窓(1980年)◎お熱いのがお好き (195年)◎Oh!ベルーシ絶体絶命(1981年)◎お茶と同情 (1956年)◎女ドラキュラ(1936年)◎カー・ウォッシュ (1976年)◎カラー・パープル(1985年)◎カラミティ・ジェーン (1953年)◎犠牲者 (1961年)◎キャバレー (1972年)◎去年の夏 突然に(1959年)◎ギルダ (1946年)◎クライング・ゲーム (1992年)◎クリスチナ女王 (1933年)◎グリニッチ・ビレッジの青春  (1976年)◎クルージング (1980年)◎軍曹(1968年)◎刑事 (1968年)◎恍惚 (1992年)◎恋人よ帰れ (1961年)◎GO fish (1994年)◎荒野を歩け (1962年)◎氷の微笑 (1992年)◎孤独な場所で (1950年)◎殺しのファンレター (1981年)◎コンチネンタル (1934年)◎サンダーボルト (1974年)◎十字砲火(1947年)◎情熱の狂想曲 (1950年)◎女囚の意気地 (1933年)◎女囚の掟(1950年)◎シルクウッド(1983年)◎紳士は金髪がお好き(1953年)◎スパルタカス (1960年)◎ターザンの復讐 (1934年)◎大砂塵 (1954年)◎ダンシング・レディ (1933年)チャップリンの舞台裏 (1916年)◎チョコレート・ウォー(1988年)◎つばさ (1927年)◎Dickson Experimental Sound Film (1895年)(邦題不明、ディクソンの実験映画)◎ティーン・ウルフ(1985年)◎テルマ&ルイーズ (1991年)◎トーチソング・トリロジー (1988年)◎屠殺者 (1922年)◎トップ・ハット(1935年)◎ドリーム・マシーン(1989年)◎日曜日は別れの時 (1971年)◎ノース・ダラス40 (1979年)◎パートナーズ (1982年)◎橋からの眺め (1962年)◎バニシング・ポイント(1970年)◎パニック・スクール/冒涜少年団  (1985年)◎ハンガー (1983年)◎ビクター/ビクトリア (1982年)◎羊たちの沈黙 (1991年)◎ビビアンの旅立ち(1985年)◎フィラデルフィア (1993年)◎フライド・グリーン・トマト (1991年)◎フランケンシュタインの花嫁 (1935年)◎プリシラ (1994)◎フリービーとビーン/大乱戦 (1974年)◎ブロードウェイ・メロディー (1929年)◎ヘアスプレー (1988年)◎ヘザース/ベロニカの熱い日 (1989年)◎ベン・ハー (1959年)◎ポイズン (1991年)◎ボーイズ・オン・ザ・サイド (1995年)◎僕たちの時間 (1991年)◎マイ・ビューティフル・ランドレット (1985年)◎マイ・プライベート・アイダホ (1991年)◎マイ・ボディガード (1980年)◎マイ・ライバル(1982年)◎摩天楼を夢みて (1992年)◎真夜中のカーボーイ (1969年)◎真夜中のパーティ(1970年)◎マルタの鷹 (1941年)◎Mr.レディ Mr.マダム (1978年)◎ミス・ダイナマイト(1932年)◎ミセス・ダウト  (1993年)◎ミッドナイト・エクスプレス (1978年)◎メーキング・ラブ(1982年)◎女狐 (1967年)◎モー・マネー (1992年)◎モロッコ (1930年)◎野望の系列(1962年)◎夜を楽しく(1959年)◎48時間(1982年)◎ラブ IN ニューヨーク (1982年)◎リアンナ (1983年)◎リビング・エンド (1992年)◎理由なき反抗 (1955年)◎レベッカ (1940年)レポマン(1984年)◎ロープ (1948年)◎ロングタイム・コンパニオン (1990年)◎別れの一瞥(1986年)◎ワイルド・アット・ハート(1990年)◎ワンダー・バー (1934年)

 

『セルロイド・クローゼット』は、ヴィト・ルッソが1981年に発表し、その後のLGBTQ研究に大きな道を切り開いた画期的な書物をもとに、ハリウッド映画の中でいかに同性愛者たちは不当に歪められ、嘲笑われて描かれてきたのか。そして同性愛の表現が自主規制で禁じられる中、その拘束をかいくぐって独自の表現をどう獲得してきたのか…。数多くの映画からの豊富な実例と関係者たちの証言を通して、知られざる映画の歴史を明らにした作品です。

 

1969年6月27日夜(28日の未明)、ニューヨークのグリニッジ・ヴィレッジにあったゲイバー「ストーンウォール・イン」で、「ストーンウォールの反乱」「ストーンウォール暴動」などとも言われるストーンウォール事件が起こります。

 

「ストーンウォール・イン」というゲイバーは、ニューヨーク市のダウンタウンに近いグリニッジ・ヴィレッジのクリストファー通りに面していて、ゲイバーとはいうものの、今ではLGBTQと呼ばれるセクシャルマイノリティの人々が集まる場所でした。

 

当時のこの界隈のゲイバーのほとんどがマフィアによって経営されていて、このバーはそのなかでももっとも有名な店でした。当時は店で客に酒を提供するには酒類販売の免許を取る必要がありましたが、ゲイバーでは「性的倒錯者」に酒類を提供するということからその免許が与えらていなかったのです。

 

にもかかわらず、「ストーンウォール・イン」が酒類販売の許可をもたずに営業しているという噂があり、ニューヨーク市警察はストーンウォール・インに対してしばしば手入れを行っていたのです。

 

6月27日もニューヨーク市警察の手入れがあり、それまでの警察の横暴や迫害に耐えてきた「性的倒錯者」(嫌な言い方ですね)と呼ばれる人たちの怒りが爆発し、徐々に群衆が増えてゆき、2,000人とも言われる抗議者と警官との5時間にわたる攻防戦により抗議者たちはクリストファー・ストリートを解放するのに成功したのです。

 

その中に、『セルロイド・クローゼット』の原作者、23歳の学生だった「ヴィト・ルッソ」はいたのです。その後、権利運動の盛り上がりと共に、彼は同性愛者たちを率いるリーダーとなっていきます。44歳の若さでエイズに倒れるまで闘い続けた人なんですよね。

 

初めて『セルロイド・クローゼット』観た時は、原作者が誰かなんて考えもしなかったのですが、「ヴィト・ルッソ」の生涯を知ると、『セルロイド・クローゼット』という作品を観た時の感じ方が変わると思いますよ。

 

アメリカには、GLAAD(グラード)という、 LGBTの 人々のイメージに関する メディアモニタリングを行っている非政府組織があります。

 

ニューヨーク・ポスト紙が掲載したAIDSについての中傷的かつセンセーショナルな報道に対しての抗議を目的に1985年にニューヨーク市にて設立され、メディア企業によって報道されたホモフォビック(同性愛や同性愛者に対する嫌悪や憎悪から成る嫌がらせやいじめ、差別、暴言)な記事に対して是正を求める活動を行っている組織で、創立者が「ヴィト・ルッソ」なんです。

 

それまで同性愛を表現するために使われていた差別的な意味を含む表現の使用を止めて「ゲイ」という言葉を使う編集方針に切り替えさせたのも「ヴィト・ルッソ」です。

 

GLAADが考案した、映画・ドラマ・小説などの作品がどれだけ男女平等であるか、LGBTQの描かれ方に問題はないかを測るテストがあるのですが名前が「ヴィト・ルッソ」テストというんです。

 

僕は最近まで、こんなテストがあるとは知りませんでしたが、ハリウッド映画では、LGBTQ+キャラクターの起用が増えているとは言え、“面白いコメントをするゲイの友人”や“隣に住むゲイのカップル”といった、ステレオタイプな役がまだまだ多い印象がありますからね。

 

「ヴィト・ルッソ」はエイズで亡くなったのですが、エイズ(AIDS:後天性免疫不全症候群)とは、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)に感染することによって免疫の機能が著しく低下し、重症な感染症やがんを併発するようになる病気のことです。どんな人でも感染する病気だと今では理解も進んでいますが、同性愛者や麻薬中毒者だけが罹る病気だと思われていた時代もあったのです。

 

エイズは、ヒト免疫不全ウイルスに感染してすぐ発症する病気ではありません。感染を放置したまま時間が経過し、体内でヒト免疫不全ウイルスが増殖した結果として、免疫反応を担うリンパ球の一種が急激に減少することで発症するとされています。そのため、感染してもウイルスの増殖を抑えられれば発症を抑止できる可能性があります。

 

今では、仮にヒト免疫不全ウイルスに感染したとしても、体内での増殖を抑える治療薬が開発されているので、実際にエイズに進行する患者は少なくなっていると言われます。早期に治療を開始できれば、これまでどおりの日常生活が送れることがほとんどだそうです。

 

僕の周りにも何人かいますよ。(HIV)に感染した人は。何か別の病気に罹った時に、調べたら感染していたことがわかったという人が多い気がします。ちゃんと処方された薬を決まった量飲んでいればエイズは発症しないようですが、一生付き合っていかなければいけない難儀な病気だよと言っていました。

 

「ヴィト・ルッソ」が「エイズ」を発症した後、1988年に行った『なぜ闘うのか』という有名な演説があります。長いので一部抜粋です。

 

ニューヨーク市に住む私の友人は、交通機関の半額カードを持っている。半額で市バスや地下鉄に乗れるカードである。友人が先日、そのカードを改札係に示すと、どんな障害を抱えているのかと尋ねられたので、彼はエイズにかかっていると答えた。すると、その係員は「まさか、エイズにかかってはいるわけがない。エイズだったら、自宅で死にかけているはずだ」と言った。だから、私は今日、死にかけていないエイズ患者として話をしようと思う。

 

 私が感染を告げられてからの3年間、家族は私の状況について2つの思い込みを持っている。1番目は、私がもうすぐ死のうとしていること、2番目は、それを防ぐために政府が力の限り努力してくれているだろうということだ。どちらも間違っている。

 

何らかの理由で私が死んでいこうとしているのだとしたら、その原因はホモフォービア(同性愛嫌悪)であり、人種差別であり、無関心と官僚的お役所仕事なのだ。そうしたものこそがいま、この危機を終わらせることを妨げている。何らかの理由で私が死ん でいこうとしているのだとしたら、それはジェシー・ヘルムズ(公民権運動には一貫して反対の立場を示し、人種差別的な表現も多く含む激しい攻撃を行なった議員)のせいである。米国大統領のせいである。そしてなによりも、私が何らかの理由で死んでいこうとしているのだとしたら、新聞と雑誌とテレビ番組のセンセーショナリズムのせいである。

 

私が何らかの理由で死ぬのだとしたら、それは裕福な白人の異性愛者は、自分がエイズのような病気にかかることはないと考えているからだ。 いいかい、この国でエイズを抱えて生きていくということは、生者と死者の境界領域で生活しているようなものなのだ。エイズを抱えて生きていくことは、たまたま塹壕にこもってしまった人たちだけが戦争を生き抜くようなものだ。爆弾が落ちるたびに周りを見渡し、また友人を失ったことを確かめる。でも、ほかの人は気付いていない。彼らには起きていないのだ。 私たちがある種の悪夢を生きていることなどは、あたかもないかのようにして彼らは町を歩いていく。

 

エイズはこの国の中で現実に暮らしている人たちに起きている病気ではないという認識は、以後も変わっていない。感染してもしょうがない人々、fag(あからさまにホモセクシュアルの男性をさげすむ言葉)やジャンキーといった、切り捨てられてもしょうがない人々である彼らに起きていることなのだ。

 

最新の薬の開発にも、どの用量で、どう薬を組み合わせるかといった問題にも、時間をかけて取り組むことなく、何日も、何カ月も、何年間もが過ぎていく。その費用をどうやって払うのか、そのための資金はどうやって確保するのかということなど考えることもない。彼らには関係ないことだから、考えることさえもしないのだ。

 

ゲイ男性と薬物注射使用者がこの病気のリスクにさらされている層だとするなら、エイズ教育と予防はこの人たちを対象にすべきだ。私たちにはそれを要求する権利がある。しかし、そうはなっていない。低リスクな人たちはパニックになっているというの に、私たちは教育も受けず、パニックにもならず、死んでいくことを許されている。死んで当然と思われているからだ。

 

エイズは私たちを人間として試しているのだ。この危機に私たちがどう対応したのか、将来の世代から尋ねられたときに、私たちはここで出てきたと言えるようにしなければならない。私たちの後に続く世代に伝説を残さなければならないのだ…。

 

演説はもっと長いんですけど、「ヴィト・ルッソ」が当時、言いたかったこと、訴えたかったこと、わかって欲しかったこと、今ならよく理解できますよね。彼らが戦って、力の限り、命をかけて叫び続けてくれたから、エイズの研究も進み、治療薬も生まれ、感染してもそれが原因で死ぬこともなくなったのです。

 

でも未だに、同性愛者の間でも、若くして亡くなると「あの人エイズだったんだって」「オーバードーズらしいよ」とか薄ら笑い浮かべながら勝手な憶測で噂話をする奴らもいる…。そんなの気にすることもないんだけど、聞くと不快にはなりますよね。

 

僕の職場の上司は、肩パッドの入ったボディコンのスーツを着て、バブル時代を謳歌した世代の女性ですが、僕に「休日はどうしてるの?」と聞いてくるので、「友人と食事に行ったり、カラオケ行ったり、映画観たりとかですかねー」と答えると、「男同士で?」「ホモ、ホモなの⁈」と面と向かって言ってくる人です。冗談で言っているのでしょうが、デリカシーがないなと思います。人して美しくないし、怒る気にもなりません。

 

それが普通なんだろうか…。そう納得させるしかないんです。そんな人たちに理解して欲しいなんて思いもしないし、無駄なことはしたくない…。僕はそういう境地です。

 

そんなことに気を病んでいると、自分がどんどん嫌になるし、表情が暗くなる。そんな奴らのために醜くくなるのは御免です!

 

なんか映画の話からどんどん遠ざかっているような…軌道修正しなくては(笑)

 

僕が映画の中に隠された、同性愛者的な匂いを感じた初めての映画は、アラン・ドロン主演の『太陽がいっぱい』でした。アラン・ドロンを追悼したblogにも少し書かせてもらいましたが、初めて観たのは幼い頃だったので、なんとなく感じただけだったんですけどね。

 

後に、映画評論家の淀川長治さんが『太陽がいっぱい』を「あの映画はホモセクシャル映画の第一号なんですよね。」と言っているのを知り、やっぱり〜と思ったことを覚えています。それからですね、僕が映画を観て、そういうことを匂わせる描写やキャラクターの設定に敏感になったのは。

 

1977年に新潮社から出版された吉行淳之介さんの『恐怖対談』の中に、淀川長治さんとの対談が収められていて、そこで『太陽がいっぱい』の解説を詳しく淀川さんがされていて面白いんですよ。吉行さんはなかなかその説に納得されないんですけどね。

 

原作者のパトリシア・ハイスミスと監督のルネ・クレマンは同性愛者だったと言われていますし、『太陽がいっぱい』を再映画化したアンソニー・ミンゲラ監督の『リプリー』は原作に忠実にちゃんとリプリーをゲイとして描いていました。『リプリー』も良い映画でしたね。

 

パトリシア・ハイスミスと言えば、アルフレッド・ヒッチコック監督の『見知らぬ乗客』の原作者でもありますね。この作品も濃厚に同性愛を感じさせる作品です。『見知らぬ乗客』の主演のファーリー・グレンジャーはバイセクシャルだったと聞きました。ヒッチコック監督の『ロープ』はパトリック・ハミルトンの同名舞台劇の映画化で、1924年に実際に起きた少年の誘拐殺人事件「レオポルドとローブ事件」を元にしています。犯人はゲイのカップルだったのですが、この当時は、あからさまに描けないので、犯人二人のキャラクター設定にもどかしさがあるんですよね〜。

 

アルフレッド・ヒッチコック監督だと、第13回アカデミー賞最優秀作品賞・撮影賞(白黒部門)の2部門を受賞した、ダフネ・デュ・モーリア原作の『レベッカ』に登場する家政婦のダンヴァース夫人の亡くなったレベッカに対する感情も同性愛的に描写されています。同性愛者だったら分かる—っていうシーンがあるんです。

 

ジェームズ・ディーンが「エデンの東」に続いて主演を務めた『理由なき反抗』も切ない映画でしたね。ジェームズ・ディーン演じるジムに憧れる少年・プラトーを演じたサル・ミネオが良いんですよ。

 

こんなシーンがあります。

「寒い?」(ジェイムズ・ディーンはブルゾンを脱いで、プラトーに渡してやります。

「いいの?」

「当然だろ、ほら」

(プラトーは受け取ったブルゾンをそっと顔に押し当てます。ジムの胸に顔を押し付けるように、ブルゾンの匂いを嗅ぐのです)

 

同性愛者の僕からすると、分かりすぎるほど分かるシーンです。切ないよねー。

 

映画監督ケネス・アンガーが、1900年代から1950年代に至る時期のハリウッドの映画界の有名な(悪名高い)多数の人々についての下品なスキャンダル類を詳しく綴った『ハリウッド・バビロン』という本があります。その中に、ジェイムズ・ディーンは性的な倒錯者だったと記されていて、本当かどうかは分かりませんが、だったらなんなんだって僕は思います。だとしても彼の俳優としての輝きが失われることはありません。

 

1959年のアカデミー賞で11部門のオスカーを受賞した、ウィリアム・ワイラー監督の『ベン・ハー』でチャールトン・ヘストンが演じた主人公ベン・ハーと友人メッサラを演じたスティーヴン・ボイドを恋人同士だったとする裏設定があったことや、カーク・ダグラスが自らの製作総指揮・主演で映画化した『スパルタカス』(1960年)では、ローレンス・オリヴィエ演じる政務官マルクスが、気に入った奴隷のアントニウス(トニー・カーティス)と風呂に入るシーンがあまりにも露骨すぎるのでカットされた話は映画好きなら知っている裏話ですね。

 

『スパルタカス』の監督は完璧主義者のスタンリー・キューブリックですから、検閲に対抗してそんなシーンの撮影もしたのかもしれません。

 

この検閲に、ハリウッドのプロデューサーや監督から、これでは同性愛を堂々と描いている外国映画との競争に勝てないとの抗議の声が上がったのです。ヨーロッパでは規制なく描かれていましたからね。

 

僕の大好きな、劇作家、テネシー・ウィリアムズの戯曲を映画化したリチャード・ブルックス監督『熱いトタン屋根の猫』(1958年)とジョーゼフ・L・マンキーウィッツ監督の『去年の夏 突然に』(1958年)も大好きな映画なんですけど、テネシー・ウィリアムズはゲイとして有名ですし、作品の中に同性愛的要素はたくさん散りばめられているんですけど、映画が制作された当時は、あからさまに同性愛の描写は禁止だったので、同性愛者じゃない人が観ると「なんじゃこの話は」となる場合が大きいんですよね〜もったいないと思います。

 

『熱いトタン屋根の猫』の猫とは、愛する夫が同性愛に走り、久しく夫婦関係がない欲求不満のヒロインのことを指しています。映画化に際し、原作戯曲の夫と友人のホモセクシュアルな関係は匂わす程度で、隠された演出となっているので、それに気づかない人が観ると主人公二人が何に悩み苦しんでいるのかがよく分からないと思います。この脚色に原作者のテネシー・ウィリアムズは大変失望したと言われていますね。

 

『去年の夏 突然に』は、アメリカ映画史上初の男性の同性愛者を登場させた映画だという人もいます。テーマとなっているのは、ロボトミー手術、精神疾患、カニバリズム(人間が人間の肉を食べる行動)、同性愛的指向など、いくつもの衝撃的な要素が詰め込まれた映画です。原作者のテネシー・ウィリアムズは本当はこう言いたいんだろうなぁと推測するしかないのですが、この作品も今の視点からするともどかしさを感じる作品です。とても面白い作品なんですけどね。

 

このテネシー・ウィリアムズの2作品に限らず、他の戯曲も現代の視点で映像化して欲しいですね〜。今だからこそ表現できる、作者テネシー・ウィリアムズが伝えたいことが描けるのではないかなぁと思います。

 

リリアン・ヘルマンの戯曲『子供の時間(1934年) をウィリアム・ワイラー監督、主演、オードリー・ヘプバーン、シャーリー・マクレーン、ジェームズ・ガーナーで映画化した『噂の二人』(1961年)のことは以前、このblogで書かせてもらいました。(読んでみてね)

 

シャーリー・マクレーンは、『セルロイド・クローゼット』 の中で当時を振り返って、「本当なら、マーサは自分のために戦わなければならなかったのに…」と語り、自分自身も撮影当時は同性愛というものについて何も考えていなかったと語っていました。それを責めることは誰にもできないでしょう。彼女はただ役を演じただけで、それは素晴らしい演技だったと僕は思います。

 

『噂の二人』の共同制作者であるミリッシュ・カンパニーは「性的倒錯の禁止」に対して抗議し、オットー・プレミンジャー監督は『野望の系列』をホモセクシュアルのエピソードに手を加えないまま映画化すると発表します。1961年10月3日、とうとうアメリカ映画協会が折れて「現代の文化、風習、価値観に合わせて、慎重・抑制を条件として、同性愛その他の性的逸脱を扱うことを認める」と規則を改正したのです。『噂の二人』は性的規制改正後に映画協会の承認を受けた最初の映画でした。

 

やっぱり戦わずして何事も成し遂げられないと感じます。

 

しかし『噂の二人』は製作中に配給会社のユナイテッド・アーティスツからレズビアンの要素を控えるように圧力がかかかったそうです。自主規制ってやつですかね〜。でも完成した映画は、本当に胸が痛くなる美しい人間ドラマだと思います。

 

オットー・プレミンジャー監督の『野望の系列』を初めてみた時も、この時代にここまで同性愛を描いていたのかと驚きました。オットー・プレミンジャー監督の作品歴を見ると、骨のある社会派の作品が多くて好きな監督の一人です。

 

『セルロイド・クローゼット』にはたくさんの作品が取り上げられていて、全て語り尽くすのはむずしいのでこの辺にしておきます。

 

たくさんの映画に携わっている人たちのインタヴューを聞くと、その人の人間性も垣間見れて興味深いですよ—。「フィラデルフィア」でエイズ患者を演じたトム・ハンクスには少し失望しましたけどね。

 

2012年9月、東京・南青山スパイラルホールにて開催された「第21回東京国際レズビアン&ゲイ映画祭」にて『セルロイド・クローゼット』の著者ヴィト・ルッソの半生を追ったドキュメンタリー『VITO ヴィト』が上映されたそうです。全然知らなかったー。どこかで配信してくれないかな。

 

『セルロイド・クローゼット』は時代を追ってまとめてあり、各時代ごとの問題点も提起してあり、取り上げられている作品も観たいなと思わせるし、構成、編集もよくできていると思います。興味のある方は是非一度ご覧になってください。

 

ありのままの自分にプライドを持ち、愛したい人を愛し、自分らしく生きることを恐れない…そんな人に僕はなりたいです。