最初から読んでくださっている方には、繰り返しになりますが……
母は造影剤のアレルギーがあり、造影剤で亡くなることもあるため、造影剤を使って検査ができず、エコーなどでの検査でした
造影剤を使えば、他の臓器にどれだけ癌が転移しているか、もっと詳しく余命も分かったと思いますが、造影剤自体が危険ということで、おおよその予測になりました
最初エコーで見た時点で、何もしなければ3ヶ月、抗がん剤を使っても1年もつか分からない、また途中で抗がん剤を止めることもあるかもしれない、と言われました
母はそのときパニックだったと思います
おそらく自分で考えていたより厳しい結果で、現実を受け止められなかったのだと思います
私も、先生から余命を聞いて、抗がん剤を使っても最期は同じなんだ……とショックでしたが、"私がしっかりしなければ……"と思いました
抗がん剤は結局受けずに何もしない、延命はしない、ただし出来るだけ痛みを和らげる方向でその日までいくことにしました
父は昔から役に立たず、すべて母が色々やってきたため、今回は私がしっかり母の診察に付き添い、入院の説明など看護師さんと母の橋渡し役をしたり、先生からの連絡は私のスマホへもらいました
最初3ヶ月だった余命が、検査のごとに短くなり、最期の診察では、今月中······2週間もつか·······と言われたような気がします
余命が短くなったことは母に伝えませんでした
鬱病を患い、父からは暴力的言動で脅され、父が退職してから辛い思いをしてきたと思います
私も持病を抱えて、休職と復職の繰返しで、余裕がなかったため、母の話を聞くどころか、当たってしまうこともありました
母は「早く死にたい」と何度も口にしていましたが……癌であることが分かり、余命を知ったときはどうだったのでしょう?
私はできるだけ今までと変わらず接するようにしました
母も亡くなる2週間前位までは、いつも通りの母だったので、きっと特別なことはせず、今まで通りが一番だと思って、何もしませんでした
最期の検査入院から退院したときは、もう自力では歩けなくて、車椅子でタクシーを待ちました
そのときには、もう肝臓から脳へ毒素がかなり回り始めていたのでしょう
"喉が乾いた"と言ったので、(祖母も入院していたとき、話せなくなって、お見舞いに行くと飲物をよく飲んたので)迎えに行くときに買ったジュースをゴクゴクと飲んでいました
母が亡くなって8ヶ月過ぎましたが、やっと朝起きて、母が亡くなったことを受け入れられるようになっただけで、持病の躁うつ病の鬱状態から抜け出せまけん
購入したグリーフケアの本もいまだ読めずにいます