POISON MODERATO

POISON MODERATO

「moderato」は音楽用語で「程良い速さ(で)」。「POISON MODERATO」とは、「控えめに毒を吐きます」という意味です。

Amebaでブログを始めよう!
5ヶ月近く放置していたブログだけど、そろそろ再起動させてもいいかな、と思う。

そもそも、このブログを作った目的は、Twitterでは不十分な役割をブログに負わせるということだ。つまり、Twitterでは字数制限などのために言を尽くせない憾みがあるが、その憾みがないツールがブログというわけで。

さて、そろそろ本題に行こうか。

Twitterのフォロワーさんはご存知のことと思うが、私は、雅子妃殿下のお振る舞い、その背後にいる小和田家の体たらくには強い危機感を覚え、それ故に批判もしている。これは全て、皇室の行く末を案じてのことである。
勿論、このような批判をしているのは、私だけではない。私のフォロワーさんにも、私と立場を同じくし、皇室を憂える方が多くいらっしゃる。

ところが、このような言動は、ある筋に言わせると「不敬」なのだそうな。
皇室を憂えての諫言のどこが「不敬」なのか、私はとんと理解に苦しむが、皇室に物申すこと自体が臣民として不敬と言いたいのだろう。それは分からなくはない。
しかし中には、皇室に対する批判というよりも、雅子妃殿下や小和田一家に対する批判を封殺しようと画策する勢力も存在する。

そこで、「一条の会」である。
この会の目的は(一条の会Twitterからの転載)以下のとおり。

1「憲法一条を議論する」
2「理論武装し、不知による皇室への不敬を糺す」 
3「学校教育へのアプローチ。議会陳情等働きかけを行う」

どれも誠に結構な目的ではあるのだが、タイトルで掲げた「ここがヘンだよ」というのは2点ある。
その2点とは、

1 憲法1条は皇室尊崇(あるいは国民にそれを義務付けること)を定めた条文ではない
2 彼らの本当の目的は「雅子妃殿下への批判」「小和田一家への批判」を封じることではないか

ということである。順次論じよう。

まず1の点。憲法1条の条文は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」となっていて、これは天皇の定義と国民主権原理の採用を明示したものと解されている。天皇がどういうものかは、この条文で定義づけられてはいるが、天皇尊崇・皇室尊崇などを定めた条文ではない。
それどころか、この条文をよく見て欲しいのだが、「天皇…の地位は、…日本国民の総意に基づく」とある。これはどういうことか。
これは、文字どおり読めば「天皇の地位は日本国民の総意に基づく」なのだが、これを裏から読むと、「日本国民の総意」が仮に天皇を否定するとなれば、「天皇の地位」を否定することが可能になるということだ。つまりこの条文によって、天皇制(便宜上この言葉を使う)を廃することも憲法上可能となっている。勿論、実際に廃するかどうか、廃してよいかどうかは別次元の話だけど。
そういう、日本国民に「日本の国体を変更する権利」までも認めた、ある意味では核兵器以上に恐ろしいことを定めた規定を、皇室尊崇の理由づけとして持ってくるのは、無理がありはしないのかという、素朴な疑問を拭い去ることはできない。

次に2の点。
前記「一条の会」は、雅子妃殿下の擁護派としてネット上では知られている、某氏が主宰しているものとみられている。
その某氏だけではないが、賛同者に名を連ねている人、「一条の会」Twitterアカウントをフォローしているアカウントには、雅子妃の擁護派が多い。
そしてその「一条の会」フォロワーには、「皇族批判は許さん!」として雅子妃批判に対し強硬に批判的に対応するアカウントや、私や私のフォロワーさんのような、雅子妃殿下や小和田家に批判的なアカウントに対し、一斉にスパム通報を呼び掛けるアカウントすらある(私はこれらを『テンプレコピペ軍団』と呼んでいる)。こんな連中が集う「一条の会」とは、果たして純粋な動機の下に設立されたものといえるだろうか?

そもそも雅子妃のお立場自体、皇太子殿下あってのものであるし、その実家の小和田家などは断じて皇族ではない。だから、小和田家の批判は「皇族に対する批判」ではない。最近では、擁護派も流石にまずいと悟ったのか、「皇室だけではなく、皇室の外戚に対する批判も許さない」という新しい立場が登場した。何としてでも小和田家の批判を封じようという執念すら感じてしまう。

私たちが雅子妃殿下やその背後の小和田家の批判をなぜするのかといえば、皇室に対するある宗教の影響を問題視することと、雅子妃殿下のお父上・小和田恒氏が超弩級の反日売国の徒だからだ。あの悪名高き「河野談話」をお膳立てしたのも恒氏なら、「ダッカ事件」のとき国際的常識に反して身代金の支払いを当時の福田総理に進言したのも、総理秘書官時代の恒氏である(この福田総理の対応は、後の北朝鮮による拉致事件の遠因になったといわれている)。日本国を大事に思うものとして、これらが何故看過できようか。

だから私は、この問題に関しては絶対に黙らない。

私たちを黙らせようとする「テンプレコピペ軍団」についても糾弾したいのだが、長くなったのでこの辺で(・ω・)/

最近すっかり放置してしまって申し訳ない。
いや、ネタは沢山あるんだけど、料理のしようが無かったのでこれまで記事を上げなかった(怠けていただけとも言うが)。

今日で3月も31日になり、やや季節はずれになった観もあるけど、卒業式のお話。

卒業式では、必ず歌われる歌ってのがあるよね。
私たちのころは、「蛍の光」「仰げば尊し」だった。小学校はこの2つだったし、中高は私立だったためか、やはりこの2つだった。あとはそれぞれの校歌。

しかし最近、といってももう十数年経つのだが、「仰げば尊し」を歌わない学校が増えているという。代わりに何を歌うのかといえば、「贈る言葉」とか「旅立ちの日に」とかいった、流行歌や合唱曲らしい。
で、何で「仰げば尊し」が歌われなくなったかというと、この歌の2番の歌詞の中に、「身を立て名を上げ(るように)励め」というのがある(著作権法に触れるので正確な歌詞は書きません)。これが日教組のサヨクセンサーに引っ掛かったようなのだ。
曰く、

立身出世を促す歌詞は現代に相応しくない

そうな。

????イミワカンネーヨ┐( ̄ヘ ̄)┌

としか言いようがない。

第一、

立身出世の何がそんなに悪いんだ?

としか思えん。立身出世を目指して刻苦勉励する。結構なことではないか。何をそんなに問題視しているというのだろう?
あとは、「わが師の恩」という歌詞もまずいという指摘もあったような。こっちの理由は忘れた。

それよりも気持ち悪いのは、「仰げば尊し」を歌われなく(歌わせなく)した↑の理由が、全国レベルで拡散していたらしいこと。
私の小学校は東京だが、福岡のフォロワーさんがやはり同じ理由を挙げて、「仰げば尊し」を歌わなくなったと仰っていたから、恐らく全国レベルのテンプレートとして周知徹底されていたのだろう。

ちょっと話が飛ぶけど、こういうサヨク界隈の人の意見とか主張って、その人のオリジナルのように見えても、必ずどこかに「元ネタ」があることなんだよな。そりゃテンプレートがあるのは悪いことではないし、活用するのもそうだけど、まるっとそのまんま持ってくるのは止めろよw 自分の頭で物を考えていないのがバレバレじゃんwww

あと翻ると、「旅立ちの日に」が全国の学校に拡散していった経緯も気になるんだよね。あの歌は埼玉・秩父の教員が作った合唱曲だそうだが、なぜここまで短期間で急激に広まったのか。だれか「広めた人」がいるはずなんだけどね。…おや、誰か来たようだ。

…というわけで、今回はこの辺で(・ω・)/
お久しぶりっす(・ω・)/

色々と書きたいネタは沢山あるんだけど、どうやって料理したらいいのか、収拾がつかなくなりそうな気がするので、手を出せていなかった。
そう考えると、政治系ブログの管理人さんは凄いなあ。下手な新聞や雑誌の論説記事より内容が濃いぃ記事をぶつけてくるんだから。

今日(もう日付けは変わっちゃったけど)は、「建国記念の日」。何で「建国記念日」などのような端的な名称でなくて、こんな「隔靴掻痒」きわまる名称なのかというのは、以下つらつらお読み頂ければ、お分かりになると思うので、お付き合い願いたい。

この日は、初代天皇の神武天皇が即位した日であるとされている(紀元前660年)。
それ故にこそ、この日が日本という国の「お誕生日」、すなわち「建国記念日」ということになっている。戦前は「紀元節」と呼ばれ、様々な式典を行っていた。

しかし、敗戦によってGHQの差し金により「紀元節」は廃止され、2月11日は祭日ではない普通の日に戻ってしまった。
かくてはならじと、議員有志が昭和32(1957)年ごろから、「建国記念日」を祭日にしようと行動を起こした。
この「建国記念日を祭日にする法案」、これは「祝日法」という法律の改正案という形態になるのだが、それを提出したら社会党(当時)や共産党などから、激しい批判が巻き起こった。
曰く、

1 神武天皇は実在が疑わしく、神話の世界の中だけの天皇ではないか。その日に日本国が建国されたという確かな証拠はない。よって、2月11日は「建国記念日」と言うにふさわしくない。
2 明治政府は「紀元節」の日を選んで大日本帝国憲法を発布(1889年)するとか、「雲に聳(そび)ゆる高千穂の……」という「紀元節」の歌を小学校などで歌わせ、日露戦争の開戦をこの日にあわせるなど、国民に皇国史観と軍国主義をおしつける機会としてきた。「建国記念日」を祭日とすることは戦前の「紀元節」の復活であるが、「紀元節」は憲法の主権在民の原則に反するものとして廃止されたはずである。

以上は日本共産党公式HP「『建国記念の日』に反対するのは?」というページの中に記されている理由を、私が整理したものだ。1は神武天皇の実在等が疑わしいから認めることはできないという、「証拠がない」という観点からの実証主義的批判、2は国家主義の押し付けであるから罷り成らぬという批判と言える。

そういう批判があるのも理解はできる(賛成はしないけど)。
これらに対して、私なりの反論を加えておこう。

1→日本という国は、そもそも成り立ちがはっきりしない。新大陸に国を打ち立てた米国や、革命により王政を倒したフランスなどとは異なり、「この日が創立の日だ!」と確定できる物的証拠はない。物的証拠がないなら、「古事記」「日本書紀」などの神話に依ったとしても、それは無問題である。 「日本が建国されたこと」こそが大事なのだから。むしろ、確たる物的証拠がないにもかかわらずそれを求めるのは、「悪魔の証明」を求めるものである。
ちなみに、日本は国家体制が変わらず続いている世界最古の独立国だそうで、記録上確定できるところから見ても1500年以上続いているもので、この1500年を基準にしても、なお世界最古は揺るがない。これはギネスにも認定されている。


2→「皇国史観」「軍国主義」というが、そのような教育が全くなかったとは言わないが、そこまで問題視するようなものか激しく疑問。仮に戦前の教育にそのような側面があって、主権在民の原則に反するとしても、そのことと「日本」という一国の「誕生日」を祝うという心情は、何ら矛盾するものではない。帝国憲法の発布も日露戦争の開戦も全く無関係である。
私に言わせれば、これは共産党の思考・政策の基礎とするマルクス・レーニン主義が依拠する唯物論の考え方が如実に出ているのではないかと思う。唯物論は象徴・偶像を徹底的に忌避するから、「建国記念日」もそのような「象徴」として忌避される、ということだろう。彼らが「国旗」「国歌」にあそこまで執拗に反対するのも、ここに根本があると考えれば合点がいく。


話を戻すと、上記の「祝日法改正案」、実に9回も廃案になったそうだ。
その後、当初案の「建国記念日」を「建国記念『の』日」とするなどの妥協案も出て、漸く2月11日が祭日となったわけだ。昭和41(1966)年のこと。

しかし、日本の建国を寿ぐ行事は、少なくとも政府主催のものは全く行われていない。
恐らく上記のような歴史的経緯に配慮したものなのだろうが、自分達の祖国の誕生日くらい、自分達で祝えなくてどうするんだと思う。日本という国の成り立ちが曖昧であるならなおさら。
日本はその国としての成り立ちの経緯が曖昧だったことや、他国の植民地にされた経験がなかったことなどから、建国の日はこの日、という意識を持たずにきた。そこをサヨク反日勢力に付け込まれ、蹂躙されてしまったわけだが…。

米国では7月4日が「独立記念日」とされ、フランスではフランス革命が始まった7月14日が事実上の建国記念日となっている。そしてどちらも国の祭日とされ、政府主催の式典が挙行される。他の国の建国記念日も、同じようなものだと思う。
ではなぜ日本が政府主催の式典が挙行できないのか? 私はこれも、戦後GHQが仕掛けたWGIPの一環であるような気がしてならないのだが。
その他にも「建国記念日」について言いたいことはあるのだが、今回はこの辺で(・ω・)/
学生時代とは、生涯付き合える友人や仲間を得る場でもあり、孤独に耐えて自らを鍛錬する場でもある(勉強でもスポーツでも何でもいいけど)。私はそう思っている。
それに、大学は何をするところか。学問をする場所、勉強をする場所であり、友人を作る場所ではない。

…のはずなんだが、最近の大学も大学生も、どうもおかしいと思うのは私だけだろうか。

「もう1人でも怖くない」 大学公認“ぼっち席”学食に広がる
(Yahoo!ヘッドラインより)

以下引用開始
大テーブルに相席が基本だった大学の学生食堂で「ぼっち席」と呼ばれる1人用の席が広がっている。テーブルの上に仕切りを設けて、対面する人の顔を見えなくした。1人で食事をするのが好きな学生が増えたというより、1人で食事をしているのを見られたくないという心理に配慮したようだ(後略)
引用終了

…。

アホですか?

大学は学問をやる場所なのに、
そもそもその程度の「孤独」に耐えることができなくて、
学問研究ができるだけの自我が育っているといえるのか?

と私は思う。
これはTwitterでも述べたけれど、本当の意味で精神的に自立している人は、友人たちとつるんでも楽しく過ごせるし、独りの時間も楽しく過ごせる。前者は楽しめるが後者が楽しめないという人は、自我が本当の意味で自立できていない人だと思う。又そういう人は、仲間とつるんでいるのは対等な人づきあいではなく、仲間に寄りかかり、依存しているだけだろう。

私は、前前からメディアが「ぼっち」なる言葉で、独りで何かをする人を揶揄・侮蔑する風潮を、極めて苦々しく思っていた。我が国のメディアが報道ではなくプロパガンダを主とする機関だとすれば、独りで何かをする人=精神的に自立している人は、彼らがしようとする「洗脳」がしにくいので、それで攻撃しているのかもしれない。…というのは穿った見方だろうか(^_^;)
ちなみに、私は独りで旅をするとか、独りで飯を食うとかは全く苦にならない。私の知人に映画好きの人がいるが、その人曰く、どうしても見たい映画は必ず独りで行くそうな。理由は、同行者に気を遣うと映画を楽しめなくなる、映画に集中し上映後の余韻を楽しむには同行者がいない方がいいんだとか。

メディアにそこまでの考えが無かったとしても、友人や仲間を過剰に礼賛する空気は、どう考えても異常としか思えない。学校教育でも太宰治の「走れメロス」を必ず教材に取り上げるなど、友人や友情の大切さばかり取り上げている。勿論それは悪いことではないし、友人のいない人生よりいる人生の方がより豊かであることには違いないけれど、友人など無理に作るものではないだろう。
私は、このように過度に友人・友情を礼賛する教育を受けたことで、友人のいない人が劣等感を持ってしまうことは、

ワンピース症候群

と名付けたい。勿論有名漫画からの命名だが、あの漫画を読み物として面白いと思うのは結構だが、ではそれほどまでに礼賛されるべきものなのか、私にはまるで理解できない。

他方、このような「ワンピース症候群」を助長させているのは、今の若者が精神的に弱くなっていることも大きいと思う。
あまり私も「いまどきの若者は…」などと、年寄りじみたことは言いたくないのだが、私の大学時代にはバブルの追い風もあったのか、もっとエネルギッシュな人が沢山いたような気がする。それこそ独りで世界一周を志した人もいたし、何より独りを苦にしなかった。していた人もいたのだろうけど、そういう苦痛を表に出す人はいなかった。
ではなぜ、大学生がかくも弱く・脆くなったのかといえば、やはり親の過保護が大きいと思う。過保護だから、年齢に応じて踏む成長のステップが踏めないか、踏まなくて済んでしまう。それがそのまま大学生になるから、「ぼっちは嫌だ」という、ガキのような弱音しか吐けない軟弱者が量産されてしまうのだ。
聞くところによると、最近では

「友人の作り方」なるものを
大学当局が教え、
学生を支援している


動きもあるとのこと。そんなもの幼稚園児か小学生の内に学んでおけよ。もし不幸にして小学校卒業までに学ぶことができなかったとしても、大学でやるようなことではないだろう。繰り返すが大学は「学問研究の場」だ。断じて「友達作り」の場ではない。

人材のグローバル化というのであれば、「ワンピース症候群」にどっぷり漬かったひ弱な日本の学生を何とかする方が先なのではないかと思う。英語とか語学は、所詮ツール、道具でしかない。その道具をどういう人材が使うか。そっちの方が大事ではなかろうか。
「ワンピース症候群」は日本をタイタニックにするぞ、マジで。

それ以外にも色々言いたいことはあるのだが、今回はこの辺で(・ω・)/
みなさん、新年明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い致します。

さて、新年一発目なんで何か明るい話題でも…と思ったけど、

大晦日にやらかしてくれやがったよなorz

サザンオールスターズ(サザン)がヽ(`Д´)ノ

一昨年サザンがリリースした「ピースとハイライト」という楽曲は、その歌詞の内容があまりにも隣国に媚びる内容であることは明白で、そのために物議を醸していた。私自身も「おいおい…」と思ったことは事実。そのような曰くつきの曲を、大晦日の「紅白歌合戦」で披露。
これだけなら、私は何とも思わなかった。なぜなら、サザンの桑田圭祐氏や他のメンバーの政治的な立場、主義主張がどうあろうと、それは楽曲の価値とは無関係だからだ。実際、サザンの楽曲には政治・社会体制に対して批判的あるいは揶揄しているようなものも少なからずあり、それすらもサザンの「芸風」のひとつであるとも言えた。あくまで、「私自身が『ピースとハイライト』を気に入らないだけ」と考えることもできたからだ。

しかし、桑田氏が「許しがたいパフォーマンスをやらかした」と私が断ずるのは、その先である。
具体的には、「紅白」中継の終了後(彼らの出演はライブ会場からの中継だった)、桑田氏が自らの受賞した紫綬褒章をお尻のポケットから出し、オークションにかけるようなパフォーマンスを行い、さらには受賞当時の天皇陛下の話し方を虚仮にするような物まねをしたというもの。

あのさあ…

褒章を侮辱するって、国家を侮辱するのと一緒だろ?

ちょっと真面目な話をすると、褒章は天皇陛下から賜るものとされる。でも法的には天皇は政治的な意思決定ができないから、実質的には内閣が決めて天皇が授ける形を取る。しかし、それでも「天皇陛下から賜る」という形態は変わらない。
だから、そのような形で受賞した褒章を侮辱するということは、国家を侮辱するということでもあり、天皇陛下を侮辱するということでもある。
結局桑田氏のやったことは、国家を侮辱し、天皇陛下を侮辱したという、くだらないパフォーマンスでしかない。

さらに滑稽というか、矛盾しているのは、そのように常日頃から反体制、アンチ日本の立場をとっているのであれば、大江健三郎氏のように、

紫綬褒章授章を辞退すべきだったのでは?

ということだ。大江氏にはその主義主張も含めて、私は一切支持も賛同もできないが、氏のこの姿勢だけは一貫していると思う。反体制なら反体制でいいから、では桑田氏はなぜ褒章を賜ったのか? そのことだけを見ても一貫していない。結局中途半端なのだ。

以上から、私は30年来のサザンファンであったことはもはや「黒歴史」である、と考え、そうツイートしているのだが、では桑田氏の作った楽曲の価値はどうなるのだろうか、という疑問がわいた。
私は常々、ある人の何がしかの業績や能力と人間性とは分けて評価すべきだ、という立場を取っているからだ。桑田氏の政治的立ち位置をもって同氏やサザンを否定することは、その常日頃からの私の立場と矛盾するのではないか。
そんなことをツイートしたら、フォロワーさんから

曲は好き。よく聴く。ただし作曲者、歌手は嫌い。
別に割り切ってもおかしくないと思いますよ

というリプを頂戴した(ありがとうございます)。

でも桑田氏が日本を、天皇陛下を貶めるパフォーマンスをやらかした時点で、私はもう今までのように、無邪気にサザンの楽曲を聴く気にはなれそうにない。

正月早々、ブルーなお話で申し訳ありません。
しかしこういうパフォーマンスをやらかしたサザン、そしてそれを容認したNHKは、批判されて然るべきだと思います。
事は「表現の自由」の問題でもあるので難しいのですが、今回はこのへんで(・ω・)ノ

※ 平成27年1月4日、カテゴリを「社会」から「芸スポ」に変更しました。