国破れて山河在り | 嘘つきと丘

国破れて山河在り

 遠藤周作の無鹿を読んだ。
 「それぞれん夢賭けて、そん夢が破れたのが無鹿」
 とても短い話ではあったが、父からすすめてもらった遠藤周作の集大成とも言うべき「深い河」に繋がっていくような話であった。それと同時に、大作「沈黙」にも帰っていくような、そんな話であった。

 同時収録されていた話の中で一番私の興味を引いたのは、「取材日記」だった。
 著者が、織田信長の愛した吉乃や、藤吉郎(後の秀吉)について美濃に訪れ、その旧跡を探し、取材した日記だ。
 すこし微笑ましくそして寂しく、静かな重量のある文だった。
 その書の中に、「どんな田舎に行っても退屈することはない。私はその場所の歴史を肌で感じるだけで会館にも似た思いが突き上げてくる。草が茫々と生えている土手で何時間座っていても飽きない」という件がある。

 そうそう、と私も思った。
 私の家族は旅行をするのが好きで、長野の八ヶ岳や茶臼山には何度も訪れたことがある。最近は私の希望で岐阜の高山や妻籠・馬籠といった歴史と情緒ある街にでかけることが多い。
 そういった場所でぼんやりするのが私は好きだ。島崎藤村や斉藤道三や濃姫の吸った空気を肌で感じるだけで何ともいえぬ気分になる。
 私の家自体が田舎にあるからか、どうしても山や野や川や、人気のないところに惹かれてやまないところが私にはある。
 物心ついたときからある花粉症に鼻をずるずるやりながら、祖父に手を引かれていった田んぼの真ん中に生える一本の桜。家の前を走る川に、毎年幻想的に飛び交う蛍の群れ。秋には裏の雑木林が競うように色づき、冬にはいかほどの湿気も含まない風が吹きつける私の故郷。
 この場所に昔から暮らしてきた人たちの事を考える。歴史に名も刻まれず紬糸のように昔から繰り返されてきた事を延々と休まず後世に伝えていった人たち。
 そういうものを考えるとき、私はいつも空を見る。野原や山は人の手によって形を変えられてしまうけれども、空はいつも空以外の何者でもないのだ。
 春の空はいつも霞を含んでけぶっている。私のご先祖達はここでどんな暮らしをしてきたのだろうと、何度も何度も考えながら、私は空を眺めている。

著者: 遠藤 周作
タイトル: 無鹿