尊敬できる人間が身近にいる事は、何と幸福な事だろう。伯父の木村勝が正にその人だった。東北の師範学校を卒業して、東京の小学校に勤務した。そこまでならば、それ程珍しくはないかも知れない。小学校の教師をしながら、夜学に通ったのである。千代田大学の法学部に。当時は司法試験合格者が大変に多く、帝都大学より多い年も度々であった。そして法学部を卒業すると郷里福島に帰った。教員養成課程と法律学、学校教育の現場で長く経験を積み管理職に、そして校長になった。母の実家に行くと座敷には世界美術全集が揃っていた。また、制作した真空管ラジオや、雑誌「太陽」、冬にはスキーをする等、教養人でもあった。校長先生の私生活からは、小中学時代の明雄はいい刺激を沢山受けた。寡黙過ぎる程だったが、眼鏡の奥の目はいつも強い光を放っているようだった。
ホームルームの度に、明雄は発言した。それは、彼が「真理」だと信じる一続きの言葉だった。「そんなくだらない事を言うな!」といった発言を否定するような反応はなかったが、補足して応援してくれる発言もなかった。「エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』の中でこんな事を言っていますが、、、、」前日に読んだ本の受け売りの場合もあった。明雄にとって言葉は、「正しいか?」「正しくないか?」の二者択一であって、価値的な側面がある事を全く理解していなかったし、コミュニケーションの道具としての言葉も理解していなかった。つまり、クラスメイトに当時の革新的な思想を啓蒙して成人した時に投票してもらおうとするのなら、クラスの世論を導いて、提案をして、議論をして、共感を得る努力が必要だったのだが、発語の欲求だけ、難解な言葉を使いたい願望だけで、発言し続けたのだし、聞く方も明雄の言葉に幾ばくかの価値は認めるものの、すきにさせておいたのだ。こうして、「左翼的な方向に話が進むのはクラスとしてはどうかな?」「親の意見も聞いてみたい。」という意見は出たが、ある日のホームルームは時間切れとなり、最後は高校生知識人の西川雅也が個人的に明雄に話しかけてきた。