学問というのは、博学な教える側と、情熱を持った教わる側の出会いと、学術内容・技法の伝承を特色とする。だから、何かを学んで極めた人は、大学名には余りこだわらない。大学名というのは、大学の理事や学長には、意味がある。つまり、学問の財政的な面、雑事面において大学名という看板を背負うのである。学問内容では、制度面の研究では、誰々先生、歴史面では誰々先生という具合で、大学名は事務手続きの際の必要事項に過ぎないだろう。研究内容は学者個人の問題意識を離れてはあり得ないし、大学として、学部として学科としての大まかな方針は決められたとしても、具体的な研究は研究者が行う。これは、住所表示の例えで考えれば解りやすい。西北大学・文学部・英米文学科・イギリスロマン主義文学は、実践的では、ない。

イギリスロマン主義文学・英米文学科・文学部・西北大学であれば、フランスロマン主義文学や日本浪漫主義との関係がすぐに問われるし実践的である。

 

日本太郎の国立大学偏執症については、「受験生」(11/18)で触れたが、これは、家計の経済的問題が国立大学神話を生みだしている事を考えた。今回は実際に学問研究をしていない人々が大学名神話を生み出している事を考察した。神話は古代社会においては、有効だったと思うが、このような神話は、現代社会においては無価値である。