現代国語か?古文か?漢文か?明雄は彼にとっての高校時代最大のテーマに煩悶していた。三分野に共通しているのは、広く浅くという事。古文は文法。漢文は返り点の打ち方や再読文字。現代国語は難しい漢字熟語の意味と使われ方が主で、まれに最近の外来語。

古事記もやった。伊勢物語もやった。枕草子も源氏物語も。でも、かなり印象が薄い。源氏物語なら源氏物語のほんの一部を学習したに過ぎない。関心のある人は文学部国文学科、さらに大学院文学研究科に進んでじっくり源氏物語なり、伊勢物語を研究してください。古文文法ぐらい高校時代に身に付けてください。という事なのだ。

博士課程から逆算して、高校時代には、古文文法を、漢文の返り点・再読文字を、難解な漢字熟語の読み・意味と用例を、まれには外来語を、という事なのだ。だから、翔のように難解な大学院レベルの哲学書を読解できる高校生は、教育制度とは相容れず、矛盾の存在となる。

明雄は、翔ほどの読解力はないが、高校時代に、吉本隆明全集を購入し読んでいた。会津若松市には、吉本隆明の原稿を編集している人が住んでおり、明雄はある時、初期の著作の購入にその人の自宅を訪ねた事がある。出て来たのは奥さんだったが、「誰かのお使い?」と聞かれたものだった。どれほど理解していたかというと本と格闘してはいるが、理解度は高くはない。だが、吉本隆明の基本3部作「言語にとって美とはなにか」「心的現象論序説」「共同幻想論」こそが、青春時代に身に付けるべき「知」であるという確信はあった。理解は困難を極めたが諦める事はなかった。

自分の読みたい本と読まねばならない学校の教科書・資料集・問題集の間の齟齬は、明雄にかなりの緊張を強いたし、年に5回の定期試験、実力テストと外部の模擬試験がある。試験期間中はさすがに試験勉強に集中したが、吉本隆明全集は頭の中の中心部を占めていた。吉本隆明の周辺領域をカバーする当時の日本の知識人集団としては「思想の科学」グループを選んだ。これは、明雄個人の考えによる図式であって、吉本隆明個人も「思想の科学」グループも関知しない。

「意識」「無意識」「存在論」「認識論」、、現代用語のコレクションは現代国語の学習法だ。論説文・新聞記事・評論文・事典・辞典の説明等々、目にする堅そうな文章に、もし意味の解らない言葉を見つけたら、書き出して置く。同じ領域の読書を続けていると、また同じ言葉が出てくる。その度に前後関係から意味を考える、もちろん辞書は引く。同じ難解な言葉に3度読書中に出くわしたら、もう意味は解っている筈だ。前後・左右・上下・あらゆる角度からその言葉を考えた事になるのだから。古文は浅く広くは授業でやっているので、夏休みには短い現代語訳で源氏物語54帖分を通読した。文庫本一冊程度だ。漢文も古文と同じく1つに絞り、「論語」だけを読んだ。薄い文庫本一冊。

まだ2学期中間試験前だが、高校教科と個人的読書、そのバランスがいい具合になって来た気がする。教習所、関東旅行、湖水浴を夏休みに全部やり切った事が自信に繋がった。もちろん大きな失敗もした。もう2度とあんな失敗はしないつもりだ。