伝統的な価値の類型「真善美」に対して、

「利善美」あるいは「善利美」を主張する事は

、二つの価値観の間の齟齬や葛藤を思索す

る者に、引き起こすのではあるまいか?

 牧口常三郎「価値論・第七章第二節」の最

後には次のように書かれている。「精神的創

価活動までを経済的価値の系統中に入れる

のは一見不合理のようではあるが、併し(し

かし)この分業者たる学者、教師、宗教家

などが社会を対手として価値創造をなし之を

以てその衣食の資とする以上は他の一般分

業と質に於て大差はないからである。」

 誰もこの文章を否定しないであろう。ただ

私は、「価値」の座を追われてしまった「真理」

に「言語の価値」として生き延びる道を与えた

いと思うのだが。つまり、経済活動とは別に、

「言葉」の対価が「言葉」である局面が人間間

の関係にはあり、これが、ソクラテスとプラト

ンの対話、牧口常三郎先生と戸田城聖先生

の対話、戸田城聖先生と池田大作先生の対

話として存在し、経済活動の結果としては、

牧口先生の著作、戸田先生の著作、池田先

生の著作が存在していると。この視点を与

えてくれたのが吉本隆明氏の「言語にとっ

て美とは何か」で展開されている言語論で

あり、私がその事に気付けたのは、彼との

間に直接対話があったからである。「言語

にとって美とは何か」は基本的には言語論

なので、真理を記した命題を芸術作品のよ

うに扱う事で同じ論理の展開となる。