かつて日本人は、文字を持たぬ民であった。しかし、漢字を生み出した中国人の間にも早く文

字に接した者と、遅く文字に接した者がいたはずである。文字に接する事で人間が変わるとすれ

ば、文字に対する最初の接触は衝撃であろう。これは、個人の発達史に即しても幼児期から学童

期に掛けて、家庭で、幼稚園で、学校で、初めて、驚きを持って文字に接するのである。

 日本人が、文字に接した感動を語れば、中国人の中にも同意してくれる人は現れる。人は、誰

もが、初めて文字に接した体験を持つからである。そしてこれは、印欧語を話し書く人々の間で

も同様であろう。

 日本人は長い時間を掛けて、漢字を消化し、カタカナとひらがなを作り出し、現代日本語を

作って来た。確かに、カタカナで欧米語を、漢字で先ず大和言葉の表記と音読を、そして中国文

化やその影響や日本の制度や近代の翻訳語を表し、ひらがなで文字伝来以前から続くやまとこと

ばの文法とものごとを表記することは、興味深い、味わい深い形である。

 しかし、この日本語はアジアにおいて歴史的に一番早く近代語となったが、普遍性を持ちうる

のだろうか?また、卑屈になる必要はないが、世界における表意文字と表音文字の見事な統一で

あると言っていいのだろうか?ただ渾然と混じっているだけ?

 中国では、小学校からピンイン(アルファベット表記)で読む訓練をしているようである。ま

た韓国、北朝鮮にはハングルがある。