January 22, 2012(Sun) | 今日の安達太良(地上では旅人・寄留者)

今日の安達太良(地上では旅人・寄留者)

福島県本宮市内より望む安達太良連峰+我が家のネコたち+日々の出来事

2012年1月22日(日)
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今朝の雪
曇り Cloudy(7:07 January 22, 2012)
安達太良は見えず。昨夕来の積雪20cmほど。午前7時前の気温0℃。
朝7時から朝食を挟んで二回計2時間雪かき。写真は自宅付近から西、名倉山の方角。一面の銀世界、名倉山も見えず。
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雪の朝(上)07:10  (下)07:31

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今朝の集会場
曇り Cloudy(8:10 January 22, 2012)
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今朝のネコたち「雪見ネコ」
曇り Cloudy(8:31 January 22, 2012)
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昼過ぎのネコたち「眠りネコ」
曇り Cloudy(12:58 January 22, 2012)
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午後の名倉山
曇り Cloudy(12:58 January 22, 2012)
午後2時半過ぎようやく名倉山が姿を見せる。
安達太良は未だ雲の中。
●午前中は集会(礼拝)出席。
●昼食後自宅前道路の雪かき。午後2時40分終了。

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今日の夕空
曇り Cloudy(17:14 January 22, 2012)
自宅近くより南西の空。すでに車のヘッドライトが必要なほど暗い。
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夕方の安達太良
曇り Cloudy(17:16 January 22, 2012)
自宅近くより。すでに日が暮れた暗い空に安達太良が今日初めて姿を見せる。

●午後5時半-7時市民プール。

ピリピ1:21-25(新共同訳)
1:21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
1:22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
1:23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
1:24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
1:25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。

ガラテヤ2:20(新共同訳)
2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

IIコリント4:7(新共同訳)
4:7 ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

●主イエスの再臨によって最後の審判、人類の復興(復活によるからだの贖い)・新天新地が実現するまで、神は、罪を赦されて霊的に新生した人々の「土の器」(肉体)を用いてこの世に御業を行われる。
●使徒パウロは「生きるはキリスト、死ぬ益」、「この世を去って、(天に在す)キリストと共にいたいと熱望し、この方がはるかに望ましい」と言う。
●一方、「肉にとどまる方が」すなわち土の器をもってキリストの心をもって神の御業に参与するために「この世にとどまる」方が「あなたがたのためにもっと必要」と言っている。
●パウロはキリスト者として神に用いられる器として全身、全心全霊をこの世の救いのために献げた。自らの利益を求めず、隣人・同胞・異邦人のために全てを献げた。主が愛と憐れみをもってこの世で苦難の生涯を全うされたようにパウロもまた苦難の生涯を自ら進んで選んで生きた。
パウロにとってこの世を「生きるとはキリスト」であった。
●キリスト者の生涯は、旧き自分に死んで、新しいいのちを賜った自己の生涯を神と隣人とに献げていく生涯である。この世においてそれは苦難の生涯たらざるをえない、主のご生涯がそうであったように。「生きるはキリスト」である。

●パウロが主にある兄弟に対して「あなたがたは、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも恵みとして与えられている」(ピリピ1:29 新共同訳)と言うのも同じ消息による。
●そのようにこの世の生涯をひたすら走りぬいた者たちはやがて輝かしい栄冠を賜る。
すなわち、
「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。」(ピリピ3:21 新共同訳)
2012年1月22日感話より。

救いの聖業の為に代えがたき必要のあるものは独りキリストのみではない。神はその永遠の経綸を進め給う上に常に我ら弱き土の器を必要となし給う。いやしくもみわざあり、すなわち必ず器がなくてはならぬ。彼はいと高き天より無数の人の子らを見おろして、適当な器いづこと探り給う。而して之を見出すやすなわち之を選び召し給う。
...(中略)...
神はその選びたる器をして使命を果さしむるまでは彼の存在を必要となし給う。故に彼の切なる祈に答えて必ずその望みなき病を癒し給う。この場合における彼の祈は明らかに聖旨にかなうことを我ら知る(彼の使命が病によりて聖栄を挙ぐるにある場合は勿論別である)。彼はいささかも自己の為に癒されんことを願わない。ただ全き我を聖手にささげて、定められし主の用のために心ゆくまで用い尽されんことを願うのみ。而して之を願うて、癒しの奇跡は彼の動かすべからざる確信たらざるを得ないのである。

藤井武全集第六巻「神学研究(第十 癒しの奇跡より)」
付言:
●本日(2012年1月22日)の集会感話にて引用せし藤井武の言。
●編者(矢内原忠雄)によれば本篇は夫人重病に際しての1922年9月の作。

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