January 15, 2012(Sun) | 今日の安達太良(地上では旅人・寄留者)

今日の安達太良(地上では旅人・寄留者)

福島県本宮市内より望む安達太良連峰+我が家のネコたち+日々の出来事

2012年1月15日(日)
イメージ 1

今朝の安達太良
晴れ Sunny(7:08 January 15, 2012)
午前7時前の気温-6℃弱。池は全面凍結、氷の上に薄っすら雪。
大学入試センター試験第二日目。
イメージ 2

今朝の空
晴れ Sunny(7:09 January 15, 2012)
池の端より東南東の空。
イメージ 3

今朝の安達太良(2)
晴れ Sunny(8:59 January 15, 2012)

●午前中は集会(礼拝)出席。
●午後はセンター試験英語問題研究。

今朝のネコたち

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6

しかし、わたしは受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある。それが終るまで、どんなに苦しむことだろう。(ルカ12:50 新共同訳)
●主イエスはその公的ご生涯の始めにバプテスマのヨハネから洗礼(バプテスマ)を受けられた。罪なき神の子イエスが罪人である私たち人間と同じ立場に身を置かれ、人間はだれでもみな自らの罪を悔改め、罪より潔められて神との正しい関係を回復しなければならないことを示している。
●主イエスはこの個所で「わたしには受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある。」と言われた。この洗礼(バプテスマ)が来るべき十字架上の死とその後の復活を意味していることはまちがいない。原語バプティゾーは「浸す」という意味であり、全身を水に沈めるのは「埋葬」すなわち「死」を表し、水から身を起されるのは「復活/よみがえり」すなわち「新生」を表す。
●主は、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マルコ16:24 口語訳)、「自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。」(マタイ10:38 口語訳)と言われた。
●主イエスに従うキリスト者の生涯も同じである。私たちには「受けなければならない洗礼(バプテスマ)がある」、すなわち「旧き肉の人としての死」と「新しき霊の人としての復活」がそれである。「それが終るまで、どんなに苦しむことだろう。」
●キリスト者にはこの世の旅路の終りに受けるべきバプテスマがある。旧き自分(肉のからだ)に完全に死んで、新しき自分(霊のからだ)に復活するバプテスマである。
●主イエスは三日目に起された。私たちは主の再臨によって起されるまで平安な眠りにつく。それがどれほどの期間であろうが問題ではない。平安な眠りから栄光のからだを与えられて起され、目覚めるとき、眠りについたのはつい昨日のように感じられることであろう。
●輝かしい復活の晨の目覚めを待望する私たちにとって「受けなければならないバプテスマ」までこの世における苦難を主が忍耐されたように忍耐しながら主がなさったように愛の業に励もう。
●「わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。」(ロマ8:18 口語訳)
(2012.1.15.感話より)

付言:しかしながら主イエスが受けられたバプテスマと私たちが受けるバプテスマには決定的な違いがある。主の死は、本来私たちが罪の報酬として支払うべき「死」を私たちに代って支払ってくださった死、贖いの死であった。贖われた私たちが死ぬべき死は、刺ぬきの死、主の死によってすでに無力化された死(参照Ⅰコリ15:55)、「からだがあがなわれること」(参照ロマ8:23)のための死、「霊のからだ」(参照Ⅰコリ15:44)を賜るための死である。「第二の死(霊的死)」なき「第一の死(肉的死)」である(参照黙2:11、20:6)。

「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。」(ロマ7:23,24 口語訳)

イメージ 7

今日の夕空
曇り Cloudy(16:04 January 15, 2012)
西北西の空。太陽はすでに西の方角「会津」方面の雪雲の向うに隠れる。

●午後5時半-7時市民プール。

今夜のネコたち(テレビの動物番組を楽しむ)

イメージ 8

イメージ 9

イメージ 10

イメージ 11