読んでくれる人がいるのに書かないのはやっぱりだめだ!!

ってことで今日も久方ぶりに書きます。


僕の父親はよくわかりません。(性格が)

一人が好きなのか、輪を作るすべを知らないのか。
人の心配は上手なのに、自分の心配はすごく下手。
声も体も大きいのに、出不精。
自分のしたい事に他の人を巻き込もうとしないで、優先させるのはいつも他人の事。


僕の母親もよくわかりません。(性格が)

話を聞いてほしいのか、会話がしたいのか。
思ってる事と、行動する事がちぐはぐしてる。
周りに神経を張り巡らせてすぐ疲れてる。
自分を隠して括弧つけて、隠しきれなかった所を家族にだけ見せる。

んだと思うんだけど、やっぱりわからない。


ただわかる事は、この二人は僕の親。夫婦である。
他者が他者を引き立てて家族は盛り上がる。

その旬間が僕は大好きで、家族を感じる時でもある。

わからないからいい。わかろうとしなくても、家族は繋がっている。




よくわからない人生の中でよくわからないものを考えた。。。。。。。
 小学校とか中学校の思いでって他の人はどれくらい覚えてるのかなあ。。

ぼくはほとんど覚えてないんだけど、変かな? 
断片的に写真の様に節々の記憶はあるんだけど、あまりいいものではないし、自分にとって必要な事柄なのかもわからないような写真ばかり。。

やっぱりこれも睡眠障害のせいかもって思っちゃうんだよねえ。。。
それ以前に親譲りの思いやりの心と張りつめた神経が原因なのかもしれないけど。


ふっ、と10分くらいの間、授業中に寝てしまったとする。

まず考えるのは、寝た事を意味ないのにごまかしてみる。よだれが出たら極力さりげなく、、なんとかする。ごまかせてたのかは微妙な所何だけどね。

その次に、現状の把握。寝る前の記憶とのずれを探るんだよね。 周囲の視線を感じとって、即座に場になじむ。 なじもうとする。が正しいかな。


そこからは時と場によってやるべき事は枝分かれしていく。

んで、落ち着いたら、自分を自分で受け入れていこうとする。
表現に語彙があるかもしれないけど、寝てしまった自分をどうにかして肯定させようと努力する。

失敗したら、鬱。

でも中学校の頃なんて鬱になる暇なんてあまりなかった。小学校では鬱の存在すら知り得なかった。
からかわれては笑い飛ばすか起こり散らすかだった。

ってしているうちに、体力以上に脳が疲れていってたのだと思う。そうすると、またいつの間にか寝てしまう。んでまた脳が疲れるの繰り返し。
休み時間も、寝るために使ってたなあ。

そんな自分の事しか考えてない自分には結果、友達はできなかった。いじめられる事すらなく存在があったのか不安になるくらい。 睡眠障害を言い訳みたいに使ってるみたいで悔しいけど、、いない。。


どうやったら友達ってできるんだろうって思う。。

記憶を残せるほど、僕の脳には容量がなかったのかな。って思います。。。



嫌いな人とか嫌いなものと共存を強いられるときってどうしたらいいんでしょうか。

僕にとってそれはナルコレプシーです。。
嫌いなもののいい所を必死にかき集めて、自分を納得させても長くは続かず、瞬く間に消し去られていく。

ナルコレプシーに悩み、考え、苦しむほど、自分の内面を鏡で見ているような気持ちになります。

周囲と比べ、自分を蔑み、怒り、暴れる事の矛盾に気づき、自らののかで消化しようとして混乱し、
理解も乏しく、信頼できる仲間も減り、ただただどこかで頑張り続けていた事を認めてくれる人たちによって
今僕は生きています。


なんちゃってね。。ことばにすることはできても本当の所は神経が狂ってる自分の操作方法を学んでるだけです。
人と接する事はうれしくて楽しくて幸せです。。。でも、 しんどいです。

ごめんなさい。おやすみなさい。。。
 なかなかパソコン慣れしてないせいか、更新の頻度が低いなあ。。
  
話かわりまして、鬱になる人って結構いるんかなあ?

言ったもん勝ちって言ったりする人もいるし、線引き難しいけど 社会現象的な感じみたい。。。

僕も鬱だなあって思う時がある人です。。ナルコレプシー(睡眠障害)が原因としては大きいかな。
思い通りに生活できなかったり、人とは違うのかなあって悩んだり、日頃寝てしまう分取り戻そうと必死に笑顔つくって自分隠してたり。。。   僕の場合はね 。

でもみんなもそうなんじゃないかな? って思う。

あの人はああだとか、みんながこうしてるからとか、とか、とかね。

僕が思うに、豊かな国だからこそなるんだと思う。
いろーーんな種類の将来が選べて、いろーーんな事がいつのまにか勝手に過ぎてし待まう。
自分の欲を心にしまっておく事も忘れそうになるほど、手近に欲は解消される。
言葉も無数にあふれて、選択肢ばかりの世の中がすんごいスピードで流れてる。

そんな中で信念を貫ける人は少ない。そして、迷って迷って結局疲れてしまって迷路の途中で寝てしまった人が鬱になる。。。目が覚めてちょっと元気になったと思ってはりきるが、迷って迷っての繰り返し。

世の中は水道管みたいに決まった方向にしか流れない訳ではなく、川の様にぶつかったり分岐したり早くなったり遅くなったりするものだと思う。 きっと川に身を任せてるだけじゃ、進み続けられない。

自分というものが川の中で何を求めて、流れていくのか・・・。時に流れに身を任せて時に迷って、ぶつかったりもする中で終わりなき人生を流れていく。。



のかもね。
悲しいときに悲しいことを感じられないことってないですか?
悲しい時は悲しめますか?
辛い時は辛いって言えますか?
言う相手はいますか?



久方ぶりにブログに書くことが意味不明で申し訳ないです。

ふと自分に問いかけた言葉は僕の心を急速に冷やしていきます。

自己分析はしても他人のことは表面しか観れなかったり、自分の嫌な所には言い訳でかさぶたを作って、
笑顔の仮面で自らを覆い隠して、心の空っぽな部分を人に見せることを拒んで、自分だけが辛いような気持ちになって、親孝行もできず、時間が過ぎるのを眺めるような生活。

自分の可能性を無限に感じる時を忘れて、それを壊していくのもまた自分ではないかと気がついて、自己嫌悪してる自分を観てもらいたくないのにアピールしてたり、結局自分にしかできないことって何なのかとか、僕だからできることって何だろうとか、わかってるのに気づかないふりしてみたり、わかってないのに知ったふりしてみたりもする。






自分で書いててわからなくなってきたけど、結局何が言いたいのかって言うと、自分を観て欲しいのだとおもう。いい所も悪い所も全部ひっくるめて認め合える人がそばにいてくれたらと切に願う今日このごろ。。