参考文献:岩波文庫 上村勝彦訳 ヴァガバッド・ギーター
ヴァガバッド・ギーターはインド人の習慣を作り上げたと言えるであろう。しかしその一言一言は誤りである可能性が高い。
この文章を読んでインド人よ、カースト制から開放されよ!
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第一章
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誰かのために生命を捨てることは意義が無い。
インドが習慣に重きを置いている以上はインドは大したことがない。
ヴァガバッド・ギーターに書かれたことが伝統となりインド社会に根付いているとしても、それらには絶対的な根拠が一切無い。
まずは輪廻が存在するとは限らない。
一族の美徳(義務)などどうでも良い。
種姓の混乱などどうでも良い。
団子と水の供養を受けられないと、地獄に堕ちるということは決まっていない。
階級の美徳などもどうでも良い。
聞いたからといって、それが真実であるとは限らない。
“もしドリタラーシトラの息子たちが、合戦において武器をとり、武器を持たず無抵抗の私を殺すなら、それは私にとってより幸せなことだ。”とアルジュナは述べている、これは勇気の証である。
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第二章
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聖ヴァガバッド(クリシュナ)はアルジュナを弱気と言うがアルジュナは弱気ではなく優しい可能性がある。
聖ヴァガバッド(クリシュナ)はアルジュナを卑小であると決めつけるがそうではない可能性がある。
賢者は死者についても生者についても嘆かぬとは限らない。
聖ヴァガバッド(クリシュナ)は決して存在しなかったことは無いとは限らない。また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもないとは限らない。
人間は輪廻転生によって他の身体を得るとは限らない。
物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来りては去り、無情である、とは限らない、無常で無い場合もある。苦楽を平等のものと見る賢者は、不死となる、とは限らない。非有(身体)には存在はない。実有(個我)には非存在は無い、とは限らない。
身体は有限であっても有限を楽しむべきである。 彼は殺さず、殺されもしない、とは限らない。 彼は決して生まれず、死ぬこともない、とは限らない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない、とは限らない。不生、常住、永遠であり、太古より存するとは限らない。身体が殺されても、彼は殺されることがないとは限らない。 彼が不滅、常住、不生、不変であるとは限らない。人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く、とは限らない。 彼は常住であり、遍在し、堅固であり、不動であり、、永遠である、とは限らない。説かれるからといって真理であるとは限らない。
彼が常に生まれ、常に死ぬとは限らない。
死んだ者に生は必定とは限らない。
万物は、初めは顕現せず、中間が顕現し、終わりは顕現しない、とは限らない。
聞いたということは、知っているということの一部である。
主体(個我)は、常に殺されることが無いとは限らない。
アルジュナは戦慄しているのではなく多感なのである、多感である者は身体の継続を求める、それが普通である。義務に基づく戦いなどどうでもよい。
クシャトリヤは戦場で勇敢に戦って死ねば天界に行くとは限らない。
義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るとは限らない。
不名誉は死よりも劣るとは限らない。
誰かが誰かをどう思うかは決まってはいない。アルジュナは殺された方がましだとしている、そこで勇気があると言える。
敵は能力を難じながら語るべきでない多くのことを語ったとしても、死後に意識がなければ、それはつらくもなんともない。またそのこと自体つらくないと考えれば、つらくない。
アルジュナは殺されれば天界を得るとは限らない。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心したならば、罪悪を得ることは無いとは限らない。
ヨーガ(実践)における知性をそなえれば、行為の束縛を離れるとは限らない。
企てたことが消滅することなく、退転することもないとは限らない。この〔ヨーガの〕教法(ダルマ)のごくわずかでも、大なる恐怖(輪廻)から人を救済するとは限らない。
決定を性とする知性は唯一であるとは限らない。決定を欠いた者たちの知性は、多岐に分かれ、限りないとしても、決定は最大の山場で行うべきである。
愚者たちはヴェーダ聖典の言葉に喜び、他に何もないと説き、華々しい言葉を語る、としても、ヴァガバッド・ギーターに書かれたことの方がよいとは限らない。
欲望を性とし、生天に専念する者は、行為の結果として再生をもたらすとは限らない。
決定を性とする知性が三昧において形成されることもある。三要素よりなるものを離れたからといっていいわけではない。相対を離れ、常に純質に立脚し、獲得と保全を離れ、自己を制御したからといっていいとは限らない。とくに純質に立脚することは悪い場合が多いと言える可能性が高いと言えるであろう。
ヴァガバッド・ギーターを読んだからと言って、真実が得れるわけではない。
職務は行為そのものにあるとは限らない。決してその結果にはないわけではない。生きる者は行為の結果を動機としても良い。また生きる者は執着を自由に持てる。
執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をしたからといって、人は幸せになれるとは限らない。ヨーガは平等の境地であるとは決まっていない。
〔一般の〕行為は、知性のヨーガよりも遥かに劣るとは限らない。知性に拠り所を求めたからといっていいとは限らない。人間は結果を動機として見るべきである、最大の結果を想像してそれに突き進むべきである。
知性をそなえた人は、この世で、善業と悪行をともに捨て去るとは限らない。善業と悪行をともに捨て去ることはよいことでないことがある。
知性をそなえた賢者らは、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛から解脱し、患いのない境地に達するとは限らない。
ヴァガバッド・ギーター自体が迷妄の塊である可能性がある。迷妄の汚れを離れるとき、聞くであろうことと聞いたこととを厭うとは限らない。
聞くことに惑わされた知性が揺るぎなく確立し、三昧において不動になる時、ヨーガ(平等の境地)に達するとは限らない、人は常に自分が真理であると考えることについては省み、悪い部分は修正する精神が大切である。
智慧が確立し、三昧に住する人の特徴はいかなるものか?迷いが無い状況であろう、そして確信を得ている状況であろう、ヴァガバッド・ギーターを知ったからといって、そのような状況には悲しいかな、なれない。智慧が確立した人は、どのように語り、どのように坐し、どのように歩むのか?現実世界の欲求を叶えたならば、いつ死んでもよい気分になっているであろう。
意(こころ)にある全ての欲望を捨て、自らの自己(アートマン)においてのみ満足する時、その人は智慧が確立しているとは言えない。他に対して行動して経験することによって、人間は智慧が深くなる。そして言われているからといって、真理であるとは限らない。
不幸において悩まず、幸福を切望することなく、愛執、怒りを離れた人は、叡知が確立している、とは言えない。
全てのものに愛着なく、種々の善悪のものを得て、喜びも憎しみもしない人、その人の智慧は確立している、とは限らない。
亀が頭や手足をすべて収めるように、感官の対象から感官をすべて収める時、人の智慧は確立している可能性がわずかにある。これはここまでのヴァガバッド・ギーター内で私がある程度賛成できることの数少ないことの一つである。しかしその可能性はとてつもなく低いであろう。
断食したからといって、感官の対象は消滅するとは限らない。最高の存在を見る時、味もまた消滅するとは限らない。
賢明な人が努力しても、かき乱す諸々の感官が、意(こころ)を力ずくで奪う。しかし人間は教えによって、その状況から解放される可能性もある。
感官を制御した人の智慧は確立する可能性はわずかにある、しかしほとんどない。
人が感官の対象を思う時、それらに対する執着が生じるとは限らない、感じた時に執着が生じるであろう。執着からつねに欲望が生じるとは限らない、私にとって母親孝行は大きな観点で考えたところで欲望であるが、それは感じたときに生じた執着ではない、ある思考である。
怒りから迷妄が起きるとは限らない義憤ということもある。ひとは迷妄から逃れることができる、それは懐疑精神によってである。
愛憎を離れた、自己の支配下にある感官により対象に向かいつつ、自己を制した人は平安に達するとは限らない、虚無の気持ちに陥る可能性がある。 平安において、苦は滅するかもしれないが、人間生きている以上は平安に達することがほとんどない、信じることによって、平安に達するが、信じたからといって、対象が合っているとは限らない。心が静まった人の知性は速やかに確立するとは限らない、人間は高度な考えに達するためには、情報が必要である。
専心しない人には知性は無いとは限らない。専心しない人には瞑想(修習)はないとは限らない。瞑想するときに寂静が無い場合もある。寂静ではない者でも幸福である場合がある、その人は次々と、現世上の発明を行っていく、そして宗教上のことが大切であると思ったときから、宗教上の発案を行っていくことが考えられる。今の私にあることは、バガヴァッド・ギーターに書かれていることを解明して行き、そこから宗教上の発案のヒントを得ることである。
感官は元々整っている者と整っていない者がいる。その両者が素晴らしい境地に辿り着けるためには、新しい教育が必要である。
万物の夜において、自己を制する者は目覚めるとは限らない、より目覚めるためには、有用な情報が必要である。万物が目覚める時、それは見つつある聖者の夜であると、バガヴァッド・ギーターでは言われているが、そのためには感官が整っていなければならない、感官が整っているからといって、目覚めるとは限らない、というのが私の主張であるが、カースト制で上位のカーストが感官が整っているとは限らない。
海に水が流れ込むときは不動ではない。あらゆる欲望が彼の中に入るが、彼は寂静に達する、そのときには過ちと嘆きが生まれる可能性がある、そのためには人は元々感官が整っていなければならない、全ての者がそのような状況に達するためには有用な教育が編み出されなければならない。
多くの人は我執なく行動すること自体が出来ない。
ブラフマンの境地など無いかもしれないブラフマンにおける涅槃など迷妄である可能性が高い。もしくは輪廻転生する者に、全ての記憶があるとすれば、彼が説く、義務とは、正しい行為・発言・知識と誤りの行為・発言・知識がごちゃ混ぜになった状況から導かれた、彼における正しいことである可能性が高いからだ。涅槃のことなどを考えるものは、母親孝行から逸脱している、私にとって、涅槃など、私の母親が幸せでなければ、何の意義も無い。
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第三章
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言葉によってAORBを選択させる理論は単純構造である。
真理を言葉で表現する場合は複雑な構造が求められる。それは、それぞれの人々の違いに依存し、国・社会・家・習慣などにも同時に依存している、それで、現世上の真理を一言で語ることは不可能である。
人には基本的な教育と、普通を含めた複数の多数の場における経験が必要である、と私は思う、それが現世上の言葉によって真理を語る道である、と私は思う、宗教上の真理はその延長上にある、と考えることは自然なことである、それは信じるということによってかたをつけられずに、宗教科学というものが確立されるべきである。
行為の超越など、現世上の利益からはどうでもいいことである、行為の超越を行ったから、といって、宗教上の最高到達点に到達するとは限らない。単なる〔行為の〕放擲のみによって、成就に達する可能性は薄い、人はまずは現世上での欲求を満たすべきである、その次に宗教上の欲求を満たすべきである、そうすると真理は二段構造となり、現世上の真理の延長上に宗教上の幸せが存在する、と考えるのが無難である。
一瞬の間でも行為をしないでいる人は誰もいない、と言うが、行為が個人の意志の元によって行われるものである、と考えると一瞬行為をしない人間というのは考えられる。プラクリティー(根本原質)は、純質、激質、暗質という三構成要素からなる、という考え方も迷妄である可能性がある、それが真理であるならば、それを言葉で表現してもらいたい。
五感以外に生殖における快感がある、それに不快感などもある。感官の対象は感じるものである、決して考える対象ではない。
思考器官により感官を制御する、ということは、普通を含む多くの複数の多数の経験をしていないと出来ないことが考えられる、まずは欲求で負ける。運動器官により行為のヨーガを企てても、その対象をなんとかしても、まず幸せに辿り着けない。 定められた行為などない、人は自由であるべきである。何も行わないことは行為の一つと考えることはできる。行為は無為よりも優れている、ということは無い、悪の行為は無為よりも劣る。寝ているときに人間は何も行わない。
この世の人々は行為に束縛されている、しかし人は現世上の・宗教上の発案によって、束縛から逃れる方法を見出すべきである。執着を離れて、その(祭祀の)ための行為をなしたからといって、宗教上の幸せに辿り着くとは限らない。
造物主などいない可能性もある。
祭祀によって繁殖できるとは限らない、現代人は多くの場合は、科学によって繁殖できる。
神々は神々らしくあるならば、人間からの供養物などは決して欲しがらないであろう。神々はいない可能性がある。ここでバガヴァッド・ギーターは神々と言っている、それはヒンドゥー教が多神教であることを意味している。そして、神が人間の供養物を必要としているならば、それは神が人間に依拠していることを意味する。
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このようにして、私はヴァガバッド・ギーターに書かれていることは何の根拠も無いことを近い将来に証明するであろう、であるからして、インド人よ、それを見込んで今すぐにカースト制から開放されよ!といきなり言われても、多くのことが、習慣・伝統などから成り立っているから、現実的にはインド人は答えに困るよね、ではまた!