最近どうも疲れ気味なので、どうにかしようと思い、感動のサービス事例を調べてみました。
人の優しさには限りが無いのだなと改めてそう感じました。
実に羨ましいと正直そう思います。僕には知識と技術、思慮分別が欠けているので。
感動してもらえる仕事を実践できるだけの知識技術、思慮分別を持っている人は多いと思います。
しかし、そのような仕事が実際になされるのは稀だと思います。
知識技術思慮分別を感動につなげるよう意識して仕事をする人が増えたら、世の中はもっと良いものになるんじゃ無いかなという気もするのですが。
克服しようと努めるのは当然の義務だと思いますが。
でも、克服できないうちは結局自分はダメなんだと思うと辛過ぎて気持ちに余裕が持てなくなり、つまらなくなり頑張れなくなってしまったりもします。
その短所や欠点とは死ぬまで付き合うものだと覚悟を決め、その短所や欠点があっても長所や美点もあるから大丈夫と考えた方がいいんじゃないかと。
だからと言って短所や欠点で迷惑をかけてしまうのは仕方ないと考えるのはやっぱり良くない事です。
上手にコントロールする術を身に付けるという感じでしょうか。
難しそうに聞こえますが、欠点や短所を言い訳にしない、自分以外のせいにしない、そう思えたら十分でしょうし。
自分以外に対してちゃんと頑張ろうと思えばどうにかコントロールしようとするはずです。
頑張っても気を付けてもうまくいかない事ばかり続くと、やろうという気持ちよりできないからやってはいけないという考えの方が強くなりがちですが。
ちゃんとやろうという気持ちを保ち続けていれば、味方は必ず現れます。
僕はやる気を疑われるような過程を辿りがちで結果ばかりの人間ですが、それでもちゃんとやろうという気持ちを保ち続けて物事に取り組む事により、その頑張りが認められた事は何度かありますから。
常に味方に出会える訳でもなく、その事で全てを憎みがちになるかもしれませんが。
信じて待ち続ければそれでいいんだと思います。
その時その場での人や人以外にしか当てはまらない事ができるよう力を尽くす、それがおもてなしというもののようです。

非常に魅力的な響きを持つものですが、下手をすると、独りよがり、一方通行になりかねません。

社会秩序と、全体的なその時その場の流れに反しない、即す、非常に重要な事だと思います。

おもてなしとは、プラスαなのだと思います。

「せっかく来てくれたのだから、せっかくの縁なのだから、せっかく選んでくれたのだから。」

そんな気持ちあってこそですが。

来てもらえるのも、縁も、選んでもらえるのも当然では無い、ゆえに有難いという謙虚さあってこそです。

このような謙虚さは、社会秩序、常識、全体的な現実の表面上の流れの尊重の徹底から生まれるのではないかと。

それぞれの尊重の徹底に重きを置く人は、もてなす事に重きを置かないかもしれず、もてなしたいという気持ちを押しとどめようとするかもしれない。

「けれど、大事なのは自分以外との協調、社会秩序に重きを置く人、全体的な表面上の流れに重きを置く人を軽蔑するなら、おもてなしはできない。」
導入
最も原始的な感情は快と不快。
快は喜びと楽しみ、不快は悲しみと怒りにそれぞれ分かれていくはずです。
これらと情操の関係について考えてみようと思います。

①情操について
情操は高度な感情ですが、美的、知的、宗教的、道徳的に分かれます。
美醜の感覚、知的か否かの感覚、宗教的か否かの感覚、道徳的か否かの感覚、これらと快不快は、普通は結び付くものだと思います。
過去と未来に対する感覚、今現在目の前に無いものに対する感覚。
知的か否か、宗教的か否か、道徳的か否かと、美醜の感覚、そして快不快の感覚は、全てつながるものだと思います。
規則正しく整えられた知的、道徳的、宗教的なものに、美しさ、綺麗さ、心地よさを感じるのが普通では無いかと。
まぁ、規則正しく整えようという頑張りを感じ、得難く価値の高いものと感じる事もあるかもしれません。

②かわいさとかっこよさについて
かわいい、かっこいいは、心地よさの最たるものですね。
かわいいは、頼られがい、かっこいいは頼りがいに対する感覚のように思います。
頼られがいは、道徳的であり、場合によっては宗教的ですらある。無私滅私の意識的な自己抑制。
頼りがいは、自他に対し、厳しさと優しさを適度に持つというところでしょうか、規則正しさが鍵を握りそうです。
頼られがいは、受容がメインで、頼りがいは、拒絶がメインのように思います。
「余計な感情言動の受容ないし拒絶、感情言動の不足欠如の受容ないし拒絶、そんな感じでしょうか。」
受容してくれるから安心して拒絶ができる。拒絶してくれるから安心して受容ができる。そんな関係があるように思います。

③まとめ。
余計な感情言動の拒絶につき悲しみや怒り、不快を感じる事もあると思います。
感情言動の不足につき寂しさや悲しみ、時には恐怖から感じたりすると思います。
余計な感情言動の受容につき喜びや楽しみ、快を感じる事もあると思います。
感情言動の充足満足につき同様のものを感じる事もあると思います。

「必要とされている時に、必要とされている事を必要とされている分だけきっちり行う。必要とされていない時に、行動しない。必要とされている時に、必要とされていない行動をしない。必要とされている行動を必要以上にしない。」
このような分別が情操の根底だと思いますが。
結果を見て不快に思うなら、必要とされている事を怠った、必要とされている分に満たない、時でなかった、必要とされる行動ではなかった、必要以上にしてしまったという事でほぼ間違い無いです。
結果に関する快は、不快よりも複雑なので、必要とされている事を怠らなかった、正しいタイミングだった、正しい行動だった、過不足なく行えたと必ずしも言えません。不快よりも因果の結び付きは弱いです。ただ、全く的外れでも無いはずです。
「快不快の感覚、大事です。理由を考えてみてください。余計なものは不足から生じますし、不足は、余計があるから。不足を補う、余計を減らす。どちらも必要、どちらか片方だけでは不十分。」






僕が傷付くだけで済めばいいんですが、結局は自分以外を巻き込んでしまいますからね。
「人を傷付けるより、自分が傷付いた方がいい。」
「騙す事に躍起になっている時の良さはその人本来の良さ。」
そういう考えが僕の中にあるせいなんだと思います。
騙されているかもしれないと思っても、それは単なる自分の思い込みで、傷付けてしまうんじゃないかと考えてしまう。
人を騙すためか、人に信じてもらうためか、誰もが大きな違いを感じるのでしょうが、僕は些細な差のように思えます。
まぁ、 僕は心からの熱意に敏感な人間であり、それだけの熱意は全くの借り物には宿らないと思ってるので。
「実際に一貫していなくても、一貫させようと頑張り続けていればそれでいい、誰もが悪意しか感じない事でも、それが完全な故意でなければそれでいい。」
僕には強い悪意がありますが、それはおそらく、慈愛が歪んだものなんだと思います。
「可愛さ余って憎さ100倍」という奴です。
多分僕がこの世の全てについて持っている真実は間違ってはいないんです。けど、これをばら撒けば、大勢の人間が傷付く。
誰もが絶対と思っている事をそうではないと、ことごとく全否定するだけのものなので。
「僕は、この真実と向き合えない弱さを前提に、そういう弱さが生み出している歪みを、その弱さを一切刺激する事無く正したいとそう思っています。」
すみません、と同時に、孤独は嫌、でも、ばら撒けないから、嫌がらせをして、無理やり真実に向き合っていない間違いに気づかせてやれという気持ちも存在しています。
けど、そんな気持ちに従うのは嫌です、どうにかしたいです。
人それぞれで構わないと思いますが、しかし、それでも、中には明らかな間違いであり、正されなくてはいけないというものもあると思います。
ただ、問題はその正し方です。
「自信満々に振る舞い、自分の弱さを一切認めない。あるいは、自分に厳しさを一切求めず、自分以外に何かをしてもらう事ばかり。」
これらに対しては厳しさが有効ですが、これら以外に対しては優しさが有効です。
「自分に厳しくできないから自分が悪い、誰も何も優しくしてくれないから悪い、自分に厳しくもできないし誰にも何にも求められないからもう自分の世界で精神的な事は自給自足する。」
現実的に、真実、厳しさが足りず、また、優しくもされずという状態なのはたしかで。
厳しさが足りないなら優しくされず、優しさを求めてはいけずというのもたしかな事です。けど、優しくされなければ、厳しくできないという事もたしか。真実、現実、八方塞りです。
こんな状態で厳しくされれば、自分だってちゃんと頑張りたいのにが、どうして分かってくれないんだ、どうしてもうまくいかず、誰にも理解してもらえない苛立ちが、激しい憎悪に変わってしまうのです。それを正しいと思えば、犯罪に進みかねません。正しいと思わなきゃ、精神世界への現実逃避です。
「誰かがやらなくてはいけない事を正しく行うのが正義、正しくできているかは、相手を正しい方向へ導けるかどうか。たしかに、真実悪意ある結果ばかりで悪も同然の場合もある、だけど、そこで厳しくすれば、破滅に追いやるのだから、正しくないんです。」

「分別が大事ですが、1番大事なのは、厳しさをメインにするか、優しさをメインにするかです。これを間違えてはどうにもならない。厳しさも欠如しているなら、優しさだけじゃダメ、かといって、厳しさがあり、優しさが欠如しているなら、厳しさをメインにするのは明らかな間違い。」

まぁ、僕は厳しさをそれと感じさせず与えられるかなり特殊な人間なので、僕がどうにかするので、できなくても気にしないでください。
俺は馬鹿だ、何だって言ってやるぜ。

馬鹿は元々は摩訶だ。馬鹿の方が賢いし真実を理解できるってこった。
理屈というのは真実という氷山の一角に過ぎない。
徹底した馬鹿は誰もを楽しませるもんだし、誰もを救う、まさに偉大なる知恵って奴だ。

歪められちまったんだ。おかげで悪意が当たり前になっちまった、悲しい事だぜ。
僕が大事にしたいのは心ですが、その根幹は、誠意と根気です。
誰かのために何かを作るあるいは成し遂げる。
その際に、完成あるいは達成まで誠意を持ち続けようという根気、相手に気持ちが伝わらない事につき自ら責めを負うようにしようという誠意。
誠意の欠如につき誤魔化さず欺かず偽らないようにしようという真心。
相手を思う本気があれば誰でもできる事で、また、うまくいけば、必ずその人にとって心地よい温もりが伝わるはずです。
妥協の誘惑に打ち克つ、自分との戦い、完成や達成までに越えなくてはいけない壁はたくさん出てくると思いますが、それを乗り越え、完成したもの、達成したものを見た際の充実感はえも言われぬものだと思います。

このサイトは僕の大嫌いな国が運営しているものです、それを知りながら、僕は書きすぎてしまい、心を傾け過ぎたのだと思います。

だから、一旦休止します。
優れた技術者の事だそうですが、個人的に1番大事なのは心の技術だと思います。

いわゆる技術というものの全ては、この技術が土台となり基礎付けられる事で安定したものになると思います。

「生まれつきのものを正しく活用するために必要なムリムダムラの無い、正しい心の制御術」

外国や日本の職人における師弟制度、体育会系の部活における上下関係、地域における上下関係や奉仕活動、これらは心の技術を得るのに最適な場と考えます。

草むしり、掃除、片付け、洗濯、基礎トレーニング、炊事、こんな感じでしょうか。

古臭いやり方は、心の技術を得るのに最適なはずです。

「じっと耐えつつ堪えつつ、誰もが気分良くなる結果を目指し頑張りと、ありとあらゆるロジックを他の言葉や姿から学び形にしようという頑張り、自分や他の弱さとしっかりと向き合い続ける事により得られるものだと思います。」

独りよがりな結果とならないよう十分に注意しながら誰かや何かのために一生懸命頑張る、これだけでも十分。

人は1人では生きられず、また、生涯を共にしたいという感情を本能的に持っています、それゆえ、ちょっと頑張ると、本能が後押ししてくれたりします。

頑張れ、頑張れって一生懸命背中を押してくれるのです。

夢は、本能からの知らせなんだと思います。
良い夢は応援を、悪い夢は間違った方向へ進もうとしている事を。

意図しない悪い結果の実現は、本能ではなく、無意識によるもののはずです、とはいえ、無意識は、そうする事で自分を見て欲しいと訴えているんです。

本能は具体的にどうしたらいいかを教えてはくれません。その答えは無意識にあります。
ただ、無意識は抑圧されているため、意識して、それを解放しなくてはいけません。遊びや自然がその鍵を握るのでしょう。

「解放と言ってもルールに従わなくてはいけません。本能もそれを望むはずです。そうでなければ生涯続く関係は不可能ですから。」

本能も無意識も、やっぱり良いものなんです。どうしてもうまくいかない時は、いずれか片方もしくは双方が拗ねたりそっぽ向いている状態なんです。

「本能の危険信号や応援に気付き、無意識もちゃんと見てあげる。」

どうでしょうか。意識は、無意識や本能に支えられているのです。意識が嫌がるものを無意識は引き受けます、意識に必要なエネルギーを本能は供給します。

意識が主人公です、けど無意識や本能もまた必要な脇役です。

うーん、無意識は理、本能は情。

意識的な言動や思考は、無意識を豊かにし、本能にエネルギーを供給したりもします。

無意識は、意識の制御と本能のエネルギー供給の制御。

意識と無意識の関係が曖昧ですね。無意識の頑張りをちゃんと見てあげるという感じでしょうか。

「意識、無意識、本能の三位一体構造、これは心理学において最も重要な要素だと思います。」