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エジプトの旅行会社 トライウェイズトラベル

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アレキサンドリアにはムハンマド・アリー朝の宮殿が2つあります。

この前ご紹介したモンタザ宮殿とラス・アル・ティン宮殿です。

 

ラス・アル・ティン宮殿はムハンマド・アリー朝にとって、

とても重要な場所になります。

王朝の創始者ムハンマド・アリーがこの宮殿を手掛け、

ムハンマド・アリーがここで亡くなり、

 

イスマイールが亡命の際に息子のフアードを連れ、ここからイタリアへ出航、

お写真お借りしています。

しかめっ面のこの子供がフアードかどうかは不明です。

 

後にはファイジィーヤがここで生まれ、

 

ムハンマド・アリー朝の終焉もここが舞台になります。

ファルークと自由将校団とムハンマド・ナギーブ

左側はお別れに来たファルークの妹たちだと思われます。

黒の服を着ているのがファウジーヤですね。

 

ファルークがここからロイヤルヨット''マハルーサ''で亡命しました。

 

ムハンマド・アリー朝に興味が湧いてから、

ずっと見たかった宮殿で、

外観ですら、写真でしか見たことがなく、

エジプトにいる間に見られるとは思ってもいませんでしたびっくり

 

この宮殿は海軍所有です。

海からボートで漕ぎ出せば外観は見られるよね!?

と思い、ガイドさんにアドバイスを求めたこともありました。

 

「そんな事は出来ないですよ。」

ガイドのお兄さんはラス・アル・ティン所属の軍人です。

想像するだけで危険ですよねグラサン

 

事前に手続きを取っているのに、

宮殿の正面の門に着くまで、やっぱり厳しい検問がありました。

 

ムハンマド・アリーを讃える言葉が並らぶこの正面の門だけが、

ムハンマド・アリーの時代の残っているものだそうです。

 

 

宮殿内部は言うまでもなく、

広くて、絵画、調度品、細部に至るまで豪奢で、

案内される部屋から部屋へ、

首を四方八方に向け見ていくものだから

見終わる頃にはぐったり疲れました。

 

ここにも''F''とムハンマド・アリー朝の紋章三日月と3つ星があります。

 

イスラミック調のサロンホール

こちらとアブディーン宮殿にしかないこの大きさの立派なマムルークランプ

 

 

右端に写っているひとは元国王アハマド・フアードを案内した宮殿のガイドさんです。

ご本人を前に、元国王とは言えず、

国王と呼ぶしかなかったと苦笑いされていました。

 

ファウジィーヤとの婚約式のために

ムハンマド・レザ・パァラビ(イランの王)から贈られたシャンデリア

ファルークはイランからのいかなる贈り物にも満足することがなく、

ファウジィーヤはイランに嫁いだとき、

イランの宮殿は自分が育った宮殿とは比べ物にならないと思ったそうです。

辛辣ですね指差し

 

王の部屋のこの緑の椅子はいまも威厳が漂っていました。

 

ウキペディア「Ras Al Tin Palace」より

建築はムハンマド・アリーが65歳の頃、1834年に開始され、

1845年に当初の設計が完成するまで11年を要した。

1847年に正式に落成するまで、補修工事と追加棟の建設はさらに2年間続けられた。

 

当初はローマの砦を模していたが、宮殿には古典的なポーティコが設けられた。

1840年の東洋危機の際、ムハンマド・アリーとチャールズ・ネーピア提督の交渉の場となったという伝承がある。

お写真お借りしています。

 

1882年のエジプト戦争では、イギリス海軍の大尉と上陸部隊がこの宮殿に宿営した。

大尉は宮殿を「非常に壮麗だが、ノミと汚れの塊」と評した。

 

ラス・ア・ティン宮殿は、イタリア・ルネサンス様式の大きな宮殿で、

バロック様式やムーア様式の要素に加え、

その時代にインスピレーションを得た建築要素や装飾が施されている。

 

宮殿の敷地にはすでにイチジクの木(アラビア語でティーン)が植えられており、

ラス・アル・ティーンという名前が付けられました。

 

歴代の王の治世を通じて、この複合施設は王の住居として、

また夏の間は政府の本部として使用された。

 

お写真お借りしています。

見比べると面白い目 

↑ムハンマド・アリーが作った門と連なる建物の色が違います。



1920年代にフアード1世によって全面的に改築され、近代的なサービスや装飾が施され、

カイロ中心部にあるアブディーン宮殿(1863年建設)と同様の豪華な宮殿となった。

内部の装飾は、ルネサンス様式にビザンチン様式、フランス様式、近代様式を組み合わせたものであった。

 

宮殿の再設計と建設は、イタリア人技師エルネスト・ヴェルッチ・ベイによって監督された。

この模様替えの際の豪華な家具の多くは、

パリのエベニスト、フランソワ・リンケによって提供されたもので、

200年前のヴェルサイユ宮殿以来の規模だったポーン

 

ムハンマド・アリー朝のドラマがつまっている宮殿は、

モンタザ宮殿と同様に目の前に地中海が広がっているのに、

王朝の哀しい最期のためか、警備が厳重だったせいか、

重苦しい印象を受けました。