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448年前の今ごろには今川義元は討たれていたんですね。信長は清洲の南、須ケ口に塚を築いて義元を供養しました。

写真は今川塚です。雨に濡れていました。
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今日(旧暦5月19日)の明け方、信長は清洲の居館を出陣しました。小姓5騎を引きつれて。

写真は今日の清洲城模擬天守です。南側から写真を撮りました。信長は居館の南側の門を出たと私は推定しています。
信長公記によると、大高城を取り巻く丸根・鷲津の両砦を守備する佐久間大学と織田玄蕃から5月19日未明に清洲城の信長へ注進がありました。敦盛を舞い、食事をした後に甲冑をつけ、信長は出陣します。
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其の時の御伴には御小姓衆、岩室長門守、長谷川橋介、佐脇藤八、山口飛騨守、賀藤弥三郎、是等主従六騎、あつたまで、三里一時にかけさせられ、辰の剋に源大夫殿宮のまへより東を御覧じ候へば、鷲津・丸根落去と覚しくて、煙上り候。此の時、馬上六騎、雑兵二百計りなり。浜手より御出で候へば、程近く候へども、塩満ちさし入り、御馬の通ひ是れなく、熱田よりかみ道を、もみにもんで懸けさせられ、先づ、たんげの取出へ御出で候て、夫より善照寺、佐久間居陣の取出へ御出であつて、御人数立てられ、勢衆揃へさせられ、様体御覧じ、・・・・・ (信長公記・首巻 今川義元討死の事より)
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信長は清洲からどのような経路を辿って桶狭間まで行ったのか、少し前から興味がありました。このブログでも昨年の12月から今年の2月にかけてボチボチと考えてきました。しかしながら、その経路はなんともよくわからない・・・といったところです。ただ、桶狭間合戦当日(旧暦5月19日、今の暦では6月22日)を明日に控え、今のところの私の推定した経路をまとめてみたいと思います。

<<推定経路>>
清洲の信長居館(清洲城模擬天守のある辺り。五条川の東岸)の南側にある門を出て、清須市内を南へ直進する。桶狭間合戦当時にはなかった新川を渡り、清須市下河原町あたり(豊公橋の500メートルほど上流の位置)で庄内川を渡河する。渡河した後、このあたりで旧街道である鎌倉街道に入り、名古屋市中村区を南南東に通過して黄金橋、小栗橋を渡って名古屋市中区に入る。古渡交差点を右折して国道19号線を南下、熱田神宮に至る。現在は熱田神宮の宮域南端にある上知我麻神社の前で、はるか丸根・鷲津の砦を遠望した後、熱田神宮を少しまわりこんで名鉄神宮前駅あたりから少し東へ進む。瑞穂区大喜町あたりで右折して南へ進み、井戸田町付近から県道221号線岩崎名古屋線に入って再び東進する。島田橋西交差点を右折して天白川を渡り、島田交差点を再び右折して県道59号線名古屋第2環状線に入り、南西に進んで野並を通過、丹下砦(名古屋市緑区鳴海町字丹下)に至る、という経路です。


熱田神宮から丹下砦への経路は、おおよそ間違いないと思います。これは鎌倉街道の「かみの道」。遠回りをしているようですが、桶狭間合戦当時、満潮時には鎌倉街道の本道は馬で通ることができないためです。そして、この時、満潮だったのです。一方、清須から熱田までの経路はよくわかりません。上記の経路は私の推定です。江戸期の美濃街道沿いに位置する白山神社(名古屋市西区)に、桶狭間合戦の出陣に際して信長が立ち寄ったという伝承があるようなので、それが事実ならば私の推定は間違いということになります。私の推定は3つの理由からこの伝承をあえて無視しています。(1)熱田への道は須ケ口を通る、(2)江戸期の美濃街道に相当する道がその頃あったのか、つまり枇杷島橋の付近を本当に通ったのか確信できない、(3)信長公記に、名古屋市中村区にあった大秋城や米野城が、清須と名古屋の間にあったという記述があり(*1)、これに従うと庄内川を渡ったのは今回の推定地であると考えられること、です。ちなみに、清須と熱田の間に荒子があるという信長公記の記述(*1)によると、熱田への経路はもっと南を通るとも考えられるのですが、荒子については清須と熱田の海路(清洲から五条川を下り、伊勢湾に出る。当時の海岸線は今の国道1号線あたりなので、その海岸線を伝って熱田の町に至る)に着眼した記述かもしれません。荒子は当時の海岸線に近いところにあります。従ってこの可能性はとりあえず除外しました。

*1:信長公記・首巻「勘十郎殿・林・柴田御敵の事」より
・・・林与力のあらこの城、熱田と清洲の間をとり切り、御敵に成る。こめのの城、大脇の城(大秋城のことと思われる)、清洲となご屋の間にあり。・・・


また、清洲の信長居館は現在の模擬天守付近としました。居館の位置と清洲城下内の経路については東海埋蔵文化財研究会の資料等にもとづいています。

・東海埋蔵文化財研究会(1988)
  「清須ー織豊期の城と都市ー資料編」
・東海埋蔵文化財研究会(1989)
  「清須ー織豊期の城と都市ー研究報告編」
・新川町史 資料編2

いずれにせよ、はっきりした経路はまだ私にはよくわかりません。研究を継続したいと思います。

信長公記によると、この日には次のようなことがありました。

今川義元沓懸へ参陣。十八日夜に入り、大高の城へ兵粮入れ、助けなき様に、十九日朝、塩の満干を勘がへ、取出を払ふべきの旨必定と相聞こえ候ひし由、十八日、夕日に及んで、佐久間大学・織田玄蕃かたより御注進申し上げ候ところ、其の夜の御はなし、軍の行は努々これなく、色々世間の御雑談までにて、既に深更に及ぶの間、帰宅候へと、御暇くださる。家老の衆申す様、運の末には智慧の鏡も曇るとは、此の節なりと、各嘲笑して、罷り帰られ候。・・・・ (「信長公記・首巻」今川義元討死の事より)

(現代語訳、注釈を含む)
今川義元は沓掛城(愛知県豊明市)に参陣した。18日の夕刻に、大高城を取り囲む丸根砦の佐久間大学や鷲津砦の織田玄蕃から清洲の信長へ次のような注進が届いた。「夜になると今川軍は大高城に兵糧を入れるであろう、さらに織田方の援軍が来ないように近辺の潮の干満を考慮して19日の朝に丸根と鷲津の両砦を攻撃するであろう」この情報がきたものの夜に清洲城で軍議がなされることもなく、信長はいろいろと世間の雑談をするばかりで、深夜になったので帰宅するようにと家老衆に暇を出された。家老衆は「運がつきるときには智恵の鏡がくもるというけれども、今がそれであろう」と嘲笑しながら帰宅された・・・。

18日はこのようにして暮れていったようです。

桶狭間の戦いまで、あと1日。つまり明日です。


ところで、今日6月21日は旧暦になおすと5月18日です。そして明日6月22日が旧暦の5月19日。桶狭間の戦いがあった日です。さきほどの15時ごろ、名古屋は10分間ほどですが土砂降りの雨でした。車で走っているとフロントガラスに打ち付ける雨粒で前が見えないくらいでした。信長軍が義元本隊に突撃したのも、そんな雨の中だったのでしょうか。桶狭間の戦いは丁度このような季節にあったわけですね。

今川義元が尾張へ進軍するにあたり、一日にどれくらいの距離を行軍したのか、おおよその距離を見積もってみました。経路については検討していませんので、主に国道1号線に沿った距離になります。距離はMapFan Web の ルート検索機能を利用しました。


永禄3年5月12日
駿府城(静岡県静岡市)~ 藤枝(静岡県藤枝市) 22.4キロ
*藤枝ではどのあたりに着陣したのか私は知りませんので、ここではJR藤枝駅としました。藤枝の花倉城は国道1号線から5キロほど北にはずれた山城なのでここでは除外しました。

5月13日
藤枝  ~ 掛川城(静岡県掛川市) 28.2キロ

5月14日
掛川城 ~ 曳馬城(静岡県浜松市) 29.9キロ

5月15日
曳馬城 ~ 吉田城(愛知県豊橋市) 39.8キロ

5月16日
吉田城 ~ 岡崎城(愛知県岡崎市) 33.2キロ

5月17日
この日には池鯉鮒まで行ったのか沓掛まで行ったのか私には判断できませんので、両方の距離を出してみました。
岡崎城 ~ 池鯉鮒城(愛知県知立市) 12.8キロ
岡崎城 ~ 沓掛城 (愛知県豊明市) 21.2キロ

これを見ると、岡崎 - 池鯉鮒間はそれまでの行軍距離と比べると極端に短いと感じます。いろんな史料を読んでみないとわからないのですが、このデータだけから判断すると17日には沓掛まで行ったのではないか、と思えてきます。ま、これは保留ですね。