西武ライオンズの現役選手が現金の置き引きで書類送検されていたそうです。

「西武・上本捕手、現金置き引き容疑で書類送検」
(6月27日11時49分配信 読売新聞)

現金自動預け払い機(ATM)で、別の利用者が置き忘れた現金3万円を盗んだ疑いとのことです。あーあ、っていう感じですね。でも、どんな状況だったんでしょうか。

私も何年か前にATMで引き出した現金を置き忘れそうになったことがあります。カードと明細書を取ることに気がいってしまって現金を取るのを完全に忘れてしまったんですね。その時は、次のATM利用者が声を掛けてくださったので助かりました。今回の野球選手の場合はどうだったんでしょうか。置き忘れの現金を見つけたとき、忘れた本人が近くにいたのでしょうか。また、銀行のスタッフはいたのでしょうか? 盗ることは言語道断ですが、状況によってはとても困ったことになります。

例えばこんなときはどうしたらいいですか? 深夜のATMで現金が忘れられていたとき・・・。現金をATMから取り出して、機械の脇に置いておく? いずれ盗られない? 緊急用の電話で管理者に連絡する? 管理者が来るまで現金はどこに置いておく? どうしたらいいの?

二日前、セルフのガソリンスタンドで似たようなことがありました。ガソリンを入るために現金を機械に入れようとしたとき、釣り銭口に小銭が忘れられていたことに気づきました。夜10時過ぎだったと思います。500円玉や10円玉などがありましたので、全部で600円くらいだったでしょうか。スタッフの控え所にスタッフがいたので、呼びに行って機械のところまで来てもらいました。忘れられた小銭を持ってスタッフのところに行っても良かったのですが、小銭に触るのも嫌だったので(気持ち悪いし、疑われることを回避するため)わざわざスタッフに来てもらったのです。はっきりいって現金が忘れられていて迷惑でした。余計な手間がかかったからです。あのとき、スタッフがいないような深夜のスタンドだったらどうしたらいいのか迷うと思います。今でもどうしたらいいかわかりません。もちろん盗る気はありません。道徳的にはもちろん、防犯カメラがついてるから問題になったときにはすぐに発覚するであろうことは容易に想像できますしね。自戒を込めてですが、現金を忘れないようにしてもらいたいものです。迷惑です(自業自得とはいえ、結果的に野球選手を犯罪者にしてしまいましたよ)。でも、ATMにも防犯カメラがついているから簡単に発覚するのにねえ。映像とその時利用された口座情報から個人特定は簡単なはず。あまりにも迂闊すぎます。

もちろん盗みはダメなので野球選手を非難するのは簡単ですが、自分に置き換えるといろいろと考えることはあります。
3日前のブログ(桶狭間への道をたどったミニ報告)に、次のように書きました。

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さらに境内を南のほうへ歩いていくと、境内の南端に上知我麻神社が見えてきます。信長公記でいうところの「源大夫殿宮」です。

この神社の前から丸根砦と鷲津砦が陥落したことを知ることになります。ここから鎌倉街道の「かみの道」を通り、星崎を迂回するようにして鳴海方面へと進みます。
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信長公記に出てくる「源大夫殿宮」は現在の上知我麻神社のことだということは聞いていました。そして現在、その神社は上記のように熱田神宮の境内の南端に位置しています。なので、信長の頃にもそこにあったと思い込んでいました。しかし今日、「新修・名古屋市史」をパラパラと眺めていて、上知我麻神社が移設されていたことを知りました。つまり、信長当時は別の位置にあったのです。思いもよりませんでした。少し調べてみました。

愛知県郷土資料刊行会が出している「名古屋区史シリーズ・熱田区の歴史」によると、上知我麻神社は都市計画の道路区域内に入るために昭和24年12月に今の場所に移されたということです。最近の話です。以前は今の場所よりも南方200メートルの位置にあったそうで、現在でいうと国道1号線と国道19号線の交差点付近がその跡地であると推察されています。

今でも、熱田神宮の本宮より500メートルほど南に上知我麻神社はあるのですが、さらに200メートルほど本宮よりも離れた位置にあったことになります。当時の海岸線により近い位置にあったことになるわけです。熱田神宮で集結した信長軍(あるいは信長)は、満潮のために海岸線付近を通って桶狭間方面へ行くことができないことを知りながら、わざわざ源大夫殿宮の前(海岸近く)まで行ったということは、何を意味しているのでしょうか。700メートル(往復1.4キロ)も余計な道のりを通ってまで。大高城やそれに対峙する丸根・鷲津の両砦の様子を観察にいったのでしょうか、あるいは、源大夫殿宮の近くに、東加藤と呼ばれる加藤図書助の居館(羽城)があったことと関係するのでしょうか。

さらに興味が出てきました。
短大生がイタリア・フィレンツェの「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」の壁に落書きをしたことが問題になっているそうです。

「岐阜市立女子短大生6人、フィレンツェの大聖堂壁に落書き」
(2008年6月24日20時37分配信 読売新聞)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080624-00000044-yom-soci

ご丁寧にも自分の氏名と短大名を落書きしたそうで、発覚して当然のことです。自分が訪れたことを何らかの形で残したいという気持ちをもつ人がいることはわかります。でも、自分の名前を書くなんて。気分が高揚して書いてしまった、と言っているようです。旅の恥はかきすて? 国内の文化財でも同様の落書きをよく見かけますが、かなり恥ずかしいです。

でも、そのような落書きも時間が経つと、それなりに「味」となるのでしょうか。1年半前のことですが、奈良を訪れたときに同じような旅人の「落書き」を見ました。

奈良東大寺の金堂(大仏殿)です。
大仏殿

大仏殿の中にはもちろん奈良の大仏(盧舎那仏)がいらっしゃいますが、
大仏

大仏さんの他にもいろいろ仏さんがおられます。大仏さんの左奥には広目天がおられるのですが、
広目天

広目天を囲う柵に落書きがあるのです。上の写真の足元に柵の一部が見えますね。その拡大写真が下です。

落書き
落書きはたくさんあったのですが、これはそのごく一部。「文化十年酉四月」という文字がはっきりと読み取れます。隣には名前らしきものの書いてありますね。文化十年といえば、西暦1813年のこと。195年前の落書きです。

ふだん、落書きを見ると腹立たしくなるのですが、この落書きを見たときにはついつい微笑んでしまいました。ここまで時間が経つと史料となるのでしょうか。

でも、いずれにせよ、落書きはダメです。やめましょう! 
 上総介信長は御馬の先に今川義元の頸をもたせられ、御急ぎなさるる程に、日の内に清洲へ御出であつて、翌日頸御実検候ひしなり。頸数三千余あり。然るところ、義元のさされたる鞭、ゆがけ持ちたる同朋、下方九郎左衛門と申す者生捕に仕り、進上候。近此名誉仕りし由にて、御褒美、御機嫌斜めならず。義元前後の始末申し上げ、頸ども一々誰々と見知り申す、名字を書き付けさせられ、彼の同朋には、のし付の大刀わきざし下され、其の上、十人の僧衆を御仕立候て、義元の頸同朋に相添へ、駿河へ送り遣わされ候なり。清洲より二十町南、須賀口、熱田へ参り候海道に、義元塚とて築かせられ、弔いの為にとて、千部経をよませ、大卒都婆を立て置き候ひし。今度分捕に、義元不断さされたる秘蔵の名誉の左文字の刀めし上げられ、何ケ度もきらせられ、信長不断ささせられ候なり。御手柄申す計りもなき次第なり。
 さて、鳴海の城に岡部五郎兵衛楯籠り候。降参申し候間、一命助け遣はされ、大高城、沓懸城・池鯉鮒の城・鴫原の城、五ケ所同時に退散なり。(信長公記・首巻「今川義元討死の事」より)

(現代語訳、括弧内は広辞苑より参照)
桶狭間合戦の当日に信長は清洲へと凱旋し、翌20日には討ち取った約3000の首実検を行いました。下方九郎左衛門という者が義元の鞭と弓懸(弓を射る時、弦で指を傷つけないために用いる革の手袋)を所持していた同朋(足利将軍に近侍し取次・お伽などの役に当たった者。法体で某阿弥と称し、時宗の徒が多く、各種芸能に長じた者が出た・・・)を生捕りにして信長に進上したところ、名誉な手柄であると言って褒美を与えられ、信長の機嫌はとても良い様子でした。信長は生捕りにされた同朋に義元が討ち取られる前後の様子を話させ、多くの討ち取られた頸についてもそれぞれ見知った名前を書き付けさせました。その同朋には、のし付きの大刀と脇差を下され、さらに十人の僧衆を集めて義元の頸とともに同朋を駿河へ送らせました。清洲の館から2キロほど南にあり、熱田への街道沿いにある須賀口に義元塚を築かせ、供養のために千部経を読ませて大きな卒塔婆を立てさせました。200806221513000.jpg今回討ち取った際に義元がふだんから差していた秘蔵の銘刀・左文字を召し上げ、何度も試し切りをして信長もふだんの差料とされました。お手柄は言うまでもないことです。

さて、鳴海城には岡部五郎兵衛が立てこもっていました。降参されたので命は助けられ、大高城、沓懸城・池鯉鮒城・鴫原城も併せて5ケ所も同時に退散させました。
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ということで、5月20日とそれ以降の数日間には以上のようなことがあったようです。ただし、鳴海城の守将、岡部五郎兵衛元信は義元の頸の引き渡しと引き換えに鳴海城を明け渡したとも言われています。ということは、十人の僧衆に、義元の頸を持たせた同朋を鳴海城の岡部まで連れて行かせたということになるのでしょう。

桶狭間の戦い、今日はその翌日でした。
桶狭間の戦い、当日です。

今日は早起きをして、夜明けまでに清洲城へ行き、自分なりに推定した経路を通って桶狭間まで自転車でたどってみようと考えていたのですが、あいにく雨が降っていたために断念しました。戦い当日により近い天候だったのかもしれないので、合羽を着て自転車に乗ってみればよかったんですけどね。

そんなこんなで、自動車でたどってみました。

今日のこれまでの記事は現地でリアルタイムに更新したものです。今、家に帰ってきましたので、今日の行程を少し補足してみることにします。

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清洲城模擬天守の南側の出口が出発点です。南へ直進したいのですが、そのような道は残っていないので、要所要所をチェックします。まずは、山王宮の西を通っていると想定しているので、現在の清須山王神社日吉神社の西側の小径を通ります。下が日吉神社です。


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さらに南進すると須ケ口にやってきます。

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上の写真は須ケ口の交差点。写真の右下をよく見ると、「みそかつ」という看板が見えます。これは「あつたや」という食堂の看板なのですが、このお店はこの須ケ口の交差点にあります。信長公記に書かれているように、須ケ口は熱田へ通じる道だけのことはありますね。二度ほどこの店でうなぎを食べましたが、店の名前の由来はまだ聞いていません。そのうち聞いてみようと思います。

このあたりに、桶狭間の戦後に今川義元を供養する塚が信長によって建てられ、現在も「今川塚」として残っているそうなのですが、これまでどこにあるのか見つけることができていませんでした。今回、初めて気がついたのですが、「あつたや」の左隣の民家に下の写真のような看板が貼り付けてありました。

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清洲城の方へ650メートルほど戻ったところにある正覚寺に、去年(2007年)の11月に移設されていたようです。戻って、見ることにしました。

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新しい花が供えられていました。頻繁に新しい花にかえられているのか、今日が義元の命日だからなのか、ちょっと興味がもたれます。


さてさて、ここから新川(信長当時にはなかった)と庄内川を越え、熱田神宮まで車を飛ばします。私は、信長らはこの区間は鎌倉街道を通っていたと考えています。いずれ、その道の跡を自転車で走ってみたいと思っています。


熱田神宮に到着しました。小雨が降る中、参拝します。巫女さんが境内を歩く姿がそこここに見えます。なんとなく厳かな雰囲気です。

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本殿から少し南に、信長塀があります。


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桶狭間の戦いの後、信長が熱田神宮に寄進した塀だそうです。今に残っているんですね。

さらに境内を南のほうへ歩いていくと、境内の南端に上知我麻神社が見えてきます。信長公記でいうところの「源大夫殿宮」です。

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この神社の前から丸根砦と鷲津砦が陥落したことを知ることになります。ここから鎌倉街道の「かみの道」を通り、星崎を迂回するようにして鳴海方面へと進みます。

鳴海城に対峙する丹下砦にまず入ります。丹下砦の遺構は残っていないようですが、丹下という地名は残っています。

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ここから善照寺砦へ移ります。善照寺砦は高台にあり、そこからは360度、周りを見回すことができます。重要な拠点であったことがうかがえます。

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中島砦を経て、いざ桶狭間の古戦場へ

古戦場の跡地は二つの自治体に、二箇所あります。ひとつは名古屋市緑区、もうひとつはとなりの豊明市です。二箇所の距離は1キロほど。まあ、このあたりいったいで戦われたのでしょう。現在もこの近くで馬が走り回っています! (中京競馬場が近くにあります)

200806221748000.jpg愛知県豊明市

200806221757000.jpg名古屋市緑区


今川塚以外はこれまでに何度か行ったことのある場所でしたが、一日ですべてをまわったのは初めてです。それも桶狭間の戦い当日(旧暦5月19日)ですから感慨深いものがあります。今日の名古屋はそれなりに強い雨が降りました。まさにこのような時期に合戦があったのですね。雨も戦いの帰趨を決する重要なファクターであったと言われています。ホント、今日にふさわしい天気でした。