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「できる子」の構造

子どもの中学受験が終わった。はじめは楽勝だと思っていた。でも楽な受験なんてないんだなと思い知らされた。まぁ結果的には第一志望合格だったのだけれど...。そんな回想記。

Ks中学の魂が運動会だとしたら、

四谷大塚の魂は予習シリーズ、4科のまとめ、

そして合不合テストだろう。

どれも私達が子どもの頃からあったもので、一種特別なものだった。

だから、合不合で結果が出せないというのは、

受験生本人よりOBOGの親にとってダメージがある。

冷静でいられない。

書いていて 「傍から見ると愚かな親に見えるだろうなぁ」とは思うけど…

仕方がないんだ、実際その立場になっちゃうと。

  

正直なところ、「合不合の不振」というのは全く予想していなかった。

弟彦の場合、総合回など範囲の広い試験の方が、

週例テストよりも常に好結果を残してきたからだ。

短期記憶を使いこなせない一方で、

じっくりと憶えたことをしっかりと保持できるのが強みだったのだ。

  

合不合の判定と過去問の出来などに乖離がある時にどうすべきか は、

いつも中受関係の掲示板で質問が飛び交う問題だから

うちの合不合敗戦記を少し具体的にグチグチと書き込むことも

誰かの役に立つかもしれない。 

…本当は無用であることをお祈りするけど。

  

多岐にわたる学力の子達の受験する多様な中学入試の合格可能性を

同じ問題を使って評価してしまおうという恐るべき試みが「合不合」 だ。

あらゆる学力レベルの子たちの実力を評価できる汎用的なテストなんて

よく考えるとあり得ない試みのように思えてくるが、

奇跡的なことに、信頼できるデータとして長年通用している。

  

それを実現するために何よりも問われるのは

「点数分布の正規性」なんじゃないだろうか。

どれほど受験生たちの学力差があろうと満点や0点の続出は困るし

得点のカーブはきれいにばらけなければならない。  

4回の試験で全ての受験単元を網羅したいという狙いもあるだろうが

この得点分布の要望に応えるために、問題数が多くなっていると思う。

満点防止も 「難問」より 「時間的制約」 が担っている面が強いと感じる。

  

四谷大塚のある先生は、1年上級生の2008年受験組のお子さんたちに

「合不合ほど難しいテストはありません、これを勝ちきれる子なら

どこの入試でも勝ちきれます!」と激励されていた。

私はそれを聞いた時にはピンとこなかったが、今はわかる気がする。

問題一つ一つが難しいのではなくて、「過酷なテスト」という意味で。

「合不合テストは、判定テストとして汎用性を持たせるため、

特殊なまでに高速処理型テストとなっている」 という意味だ。

うちの子にとっては特殊なテストだった。克服しがたいほどに。

受験期を通じて、成績に常に影を投げかけるのは子どもの性格だ。

よく 「中学受験向きの性格」なんてことが言われるけど、

そんなことが一概に判定できるほど単純なことではないと感じた。

  

弟彦はわりとまじめな性格で、塾の先生方からは「落ち着いている」

と言われていた。話し言葉や記述文などは幼稚な面が目立ったが、

面談の際には「決して幼い印象は受けませんよ」 とも言われた。

クールな現実主義者で、夢みたいなことを考えたりはしなかった。

だから望んだもの(合格)を手にするためには、しっかりと努力していた。

でも、それは貧困な想像力の裏返しだったんじゃないだろうか。

自分の経験世界の外への共感力が育たなかった原因とも感じる。

結果として物語文への感情移入は苦手で読書習慣も育たなかった。

  

集中力はあったと思う。

始めてしまえば3時間、4時間は勉強を続けていた。

「考え込みだすと時間のことを忘れてしまう」欠点と表裏一体だったけど。

6年の秋、理社の宿題に時間をかけすぎて、

もう理社に費やす時間は最小限に抑えたい私をイライラさせた。

「考える問題が多くなってるから考えないといけないんだ」と言っていた。

ご主張はごもっとも。

だが実際の試験で考える時間が気前良く与えられる訳ではない。

時間感覚は鈍かった。試験中の時間の使い方も下手だったし、

週例テストまでの1週間の使い方、入試までの減っていく時間、

全てにおいて、何かバランス感覚に欠けている子だった。

中学に入っても定期考査の試験準備の下手さなど相変わらずだった。

  

じっくりと考えることを嫌がらなかった。

男の子にしては作業も丁寧だった。

だが、スピードの向上を目的とした課題や圧力をかけられることには

頑強に抵抗して、自分の殻を打ち破ることができなかった。

融通がきかない不器用な性格だった。

  

受験というものをしっかりと 「自分のためのもの」 と理解できていた。

絶対に 「解答を覗き見する・写す」なんてことはしなかった。

「そんなの意味ないじゃん」と不思議がっていた。

その分 「考えてもわからない問題については解答を見て習得する」

という勉強法はどうしてもイヤなようだった。

一つの問題を、延々と考え続けて時間を消費した。

模範解答に納得した後も、自分の失敗に終わった解法に拘り続けた。

「なぜダメだったのか突き止めないとまた同じ失敗をするから」だそうだ。

とてもいい意識だと思ったが、入試までの時間的制約を考えれば

「このやり方はダメだ」と確認したら先へ進むことも大切だろうに。

  

こんな性格に足を引っ張られたり助けられたりしながらの3年間だった。

性格が違うと、同じ状況でも最善の選択肢は異なるものとなると思う。