Facebookは、人的交流に有効なツールだが、使い方を誤ると有害な道具になってしまう。
トランプ前大統領の件が最悪の事例だろう。同じ政治的意見を持つものが高揚した意識の状態を維持し、そのはけ口を求め実行するための入り口・集合場所にFacebookがあった。
人は居心地のいい場所を求め、共感する相手と会話をしたいものだ。Facebookはその場所を提供する。そこではトランプ氏が英雄視され、彼に対する賛辞が飛び交う。
そしてあの悲劇となった。
よく考えてみたい。
自分のこの言葉が発せられたあと、どう拡がって誰に影響があるのかを。
過去には主流だった紙媒体ではなく、現在の情報発信の主な媒体は電子的なものなので、長期に共有保存され瞬時に検索される。
つい最近、開会式に使用する楽曲の作者が酷い(犯罪的な)いじめを面白おかしく語っていた記事なども、椅子に座ったままで比較的簡単に見ることができる。二十数年前のことであっても。
そこで、自分がインターネット上に公開される言葉を発する場合には、よほど慎重に言葉を選ばないと「後悔先に立たず」を実感することになってしまう。自身を良いように見せよということではない。節度は大切ではないか、と言いたいのである。
時が経過して、自分の子どもや孫がその発言を見たときにどう思うか。いま感情に任せて書き込んだその言葉が、自分の係累にどんな影響を与えるのか。そういう想像力が求められているのである。
辞任した音楽家が残した、いじめを得々として語るような発言は読むに堪えず唾棄すべきものだ。いつまでも引用され、評価される彼の発言。これを見たら、私の(あなたの)発言は、後世に恥じるようなものではないかと常に畏れながら書き込むべきではないだろうか。
その一元的価値観に心地よさを感じる「Facebook村」での発言は、孫、子に読ませられるか、悩んで熟考して書き込むべきだろう。
《藍》