もちろんいわゆる恋愛感情だけではなく、人は多様な対象に愛を抱くことができる。また愛を感じることもできる。

敬愛するブログ、「ときどきAOU(answer of unitary)」https://inagawacabinet.blogspot.com/?m=1のMagenta氏が、ある議員の愛のありようについて記述されていた。同感する次第である。
また、正義とは何ぞやということも語られていた。その二つについては、前回Magenta氏が書かれてから、当方の記事にも登場した言葉であるが、もう少し詳細に述べたく、この記事となった。

人に対する愛を持つ者は、その人たちが住む意志を持って住んでいる郷土に対する愛も持つ。これは不可分の自然なものであると考える。
逆もまた真なりである。郷土を愛する者はその住民にも愛を感じる。
住民間の問題だけではなく、一般的な人と人の関係の悪化の原因。それは何かの「愛」の偏りに起因することが多いのではないか。恋人同士であれば、お互いの愛の深さが異なれば、関係は続かなくなる。一度は愛を誓った二人でも、子供の誕生、家庭外の生活環境の変化などで、愛が向かう対象と深さが変化して、破綻することもある。

しかしこのように、方向や深さが変化するものが「愛」なのだろうか。相手の態度に立腹して距離を置く、その前に感じていた親愛の気持ちは「愛」なのだろうか。期待していたようには変わらない郷土に感じる幻滅は「愛」が減った分に等しいのだろうか。

いや「愛」は自分の発する熱量や強度によって変わるものではない。激しい言葉で語れば愛が強いわけではない。多くの言葉を費やして語れば愛に近づくというわけではない。自分の言葉や態度が「愛」を表わすものだと思って努力するのは違うのではないか。

「愛」は受け入れる心であると思う。受け入れるという心の動きは、対象となるものと自分の葛藤との折り合いをつけないとできないことではないのか? 葛藤に折り合いをつけるには、自分による自分の評価に向き合わないといけないだろう。それは「自己」を見つめるということだ。
「自己」は自分だけで形成されるものではなく、他者との関係によって形作られる部分がかなり多い。他者から「認められる」自分の言動。その体験が「自己」を形作るのではないか。例えば、面白い話をしたらウケたのでお笑いの道に進もうと思った、などはよく聞く話だ。

他者から認められる・・・そこに意味を見出すのは、自分を評価する他者に信頼を置いているからである。そういう認められ自分が変化する体験は「受け入れる」感覚に自身を馴染ませ、肯定的な気持ちを育成するのだろう。その肯定的な受け入れる気持ちが「愛」なのではないか。自己の形成の中で、他者との関係を学び、受け入れ、受けいれられる時の喜びが、その後に「愛」と名前が付けられているものにも大きく影響するのではないか。
そのことはしかし、すべての人間がそのような成長を遂げるということを示しているのではない。

つまり、性善説・性悪説という人のありようを表わすのとは別に、人が自己の外の事象に対してどのように反応するのかを表わすものとして、肯定説・否定説とでも呼べるものがあるのではないかと思う。例えば、「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」という言葉を残した親鸞は、あらゆる事象を肯定的に受け入れる人ではなかったのだろうか。
しかし親鸞とは全く異なる、あのヒトラーは人の存在を否定的な側面からフレームアップして、他の人々を扇動し誘導した。そして、否定的な存在を消し去ることが至上命令だと唱えた。
受け入れて存在を認めることと、否定して存在を消し去ること。「愛」は前者に存在するのではないか。

さて、「猪名川町を愛している」と語るのは、以上のように他者の存在を受け入れて認めることが最初のステップではないだろうか。はなから住民を一定の基準・条件で分離分別して敵対的に始める議論に「愛」は存在しないと言えよう。
間違えてはいけないのは、そういう「議論」の始まりに愛が無いとしても、その議論を受け入れる者には「愛」と呼べるものがあるということである。条件のどちら側にいようとも、また、分離・分別を意図するものがどう扇動・誘導しようとも、「愛」を感じながら議論を続けていきたい。

以上、ときには恐ろしさを感じさせるような雨音を聞きながらつらつらと書き記した。「正義」については別稿で。