「ローマ帝国は滅びた」と聞くと、多くの人は476年の西ローマ帝国滅亡を思い浮かべるだろう。だが実際には、ローマ帝国そのものはそこで完全に消えたわけではない。東方ではなお帝国が続き、後に私たちが“東ローマ帝国”あるいは“ビザンツ帝国”と呼ぶ国家として、およそ1000年ものあいだ存続した。
では、この東ローマ帝国はいったいいつ、どのように成立したのだろうか。本記事では、ローマ帝国の危機、皇帝たちの統治改革、そしてコンスタンティノープルの建設をたどりながら、東ローマ帝国成立の流れをわかりやすく整理していく。

 

 

東ローマ帝国の成立――ローマ帝国はいかにして東に生き残ったのか

東ローマ帝国の成立は、単にローマ帝国が東西に分裂したというだけでは説明できない。そこには、広すぎる帝国をどう統治するかという政治上の問題、異民族の侵入にどう対応するかという軍事上の課題、そして帝国の中心がしだいに東方へ移っていったという大きな流れがあった。
つまり東ローマ帝国とは、突然生まれた新しい国ではなく、ローマ帝国が変化しながら東方で生き延びた姿だったのである。

3世紀のローマ帝国は、深刻な危機に直面していた。皇帝が次々に交代する内乱、国境地帯への異民族の侵入、経済の混乱、行政の停滞などによって、巨大な帝国を一人の皇帝が安定して支配することはますます難しくなっていた。
この危機に対処するため、284年に即位したディオクレティアヌス帝は大規模な改革を行う。その代表が「四帝分治」である。これは、正帝二人と副帝二人が帝国を分担して統治する仕組みで、広大な領土に対してより迅速に対応するための制度だった。
この時点ではローマ帝国はあくまで一つであり、東西に完全に分かれたわけではない。しかし、この改革によって「帝国を東西で分担して治める」という発想が制度として定着し、後の東ローマ帝国成立の土台が築かれた。

その後、内乱を制して帝国を再統一したのがコンスタンティヌス帝である。彼は統治の中心を東方に移し、330年に古代ギリシアの都市ビュザンティオンを大改造して、新たな首都コンスタンティノープルを建設した。
この都市は、ヨーロッパとアジアの境目に位置し、黒海と地中海を結ぶ海上交通の要衝でもあった。さらに防衛にも優れ、経済的にも豊かな東方世界を支える都として理想的な立地を持っていた。
コンスタンティノープルの建設は、単なる遷都ではない。それはローマ帝国の重心が西のローマから東へ移りつつあることを示す象徴的な出来事であり、後に東ローマ帝国が成立するうえで決定的な意味を持った。

東ローマ帝国の成立年として一般に重視されるのは395年である。この年、ローマ皇帝テオドシウス1世が死去し、帝国は二人の息子に分けて継承された。長男アルカディウスが東方を、次男ホノリウスが西方を支配することになり、ここから東西の分裂は事実上固定化した。
それ以前にも東西分担統治の時代はあったが、395年以後は東西それぞれに宮廷、行政、軍事体制が確立し、再統一は実現しなかった。このため、多くの歴史家はこの395年をもって、東ローマ帝国が事実上成立した時点とみなしている。

ただし重要なのは、当時の人々自身は自分たちを「東ローマ帝国の人間」とは考えていなかったことである。彼らにとって国家はあくまでローマ帝国であり、自分たちはローマ人だった。
後世の私たちが区別のために「東ローマ帝国」あるいは「ビザンツ帝国」と呼んでいるにすぎない。つまり東ローマ帝国とは、西ローマ帝国とは別に新しく建てられた国家ではなく、ローマ帝国そのものが東方で継続した姿なのである。

こうして成立した東ローマ帝国は、西ローマ帝国が476年に滅んだ後も存続し続けた。その背景には、東方の豊かな経済力、安定した税収、強固な城壁を持つコンスタンティノープル、そして比較的整った行政制度があった。
西方が異民族の侵入と政治的混乱で弱体化していく一方、東方はより強い国家体制を維持することができたのである。
したがって東ローマ帝国の成立とは、単なる分裂ではなく、ローマ帝国が変化した世界の中で生き残るために形を変えた結果だといえる。

東ローマ帝国は、古代ローマの終わりではなく、その延長線上に生まれた国家だった。3世紀の危機に始まり、ディオクレティアヌス帝の改革、コンスタンティヌス帝の新首都建設、そして395年の東西分割を経て、それは歴史の表舞台に立つことになる。
その成立をたどることは、ローマ帝国がなぜ一度は分かれ、それでも東でなお長く生き続けたのかを理解することにほかならない。