京都紅葉てくてく散歩道「東福寺~東山・哲学の道コース」(京都 東山) | サラリーマンおやじのさえずり小鳥っぷ(小旅行)

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JR東海の「そうだ 京都、 行こう」キャンペーンに踊らされ、妻が3連休を利用して長野からでてきたのである。長野の紅葉シーズンは終わりを告げたものの、関西、特に京都はこれから真っ盛りである。おまけに三連休の天気は快晴。小生も紅葉シーズンの京都へは足がすくんで行っていなかったので、今回は思い切って満喫しようとコース取りを考えたのである。初めて秋の京都を訪れたなら、定番の紅葉名所へというのが王道であろうと東福寺や清水寺、南禅寺、永観堂そして高台寺のライトアップと盛りだくさんの予定を組んだのである。(行けるんかいな?)


早起きは三文の得とばかりに始発に乗り込み、京阪京橋駅で京都観光一日乗車券「京阪 みやこ漫遊チケット」1600円を購入し、いざ京都へ。最初に目指すのは、紅の雲海に包まれた通天橋が待ち受ける「東福寺」に向かう。東福寺「三名橋」のひとつ「臥龍橋」を渡ると、「通天橋」の向かい側にある為、通天橋×洗玉澗の紅葉の全景がわかるベストポジションなのである。橋を渡るとまだ8時前なのにもう既に長蛇の列であった。





六百年前、桜を全部 切りました。春より秋を選んだお寺です。(1997年・秋)


摂政九條道家が創建した臨済宗東福寺派の大本山。九條家の菩提寺として嘉禎2年(1236)から19年の歳月をかけて建立され、規模は東大寺につぎ、教行は興福寺にならうという意味から、「東」と「福」の二字をとり、「東福寺」と名づけられた、京都五山の一つにふさわしい禅宗寺院の威容をたたえている。本尊は釈迦如来。本堂は昭和9年再建、三門は現存最古の三門で国宝。禅堂、浴室、東司(とうす)、愛染堂など重文の建築も多い。方丈庭園は昭和の作庭家、重森三玲による。750年の歴史を脈々と伝える東福寺は京都屈指の紅葉の名所として知られ、広大な境内に大伽藍が勇壮な甍を並べて佇む景観は、時空を越えた別天地のようである。数ある京都の紅葉名所のなかでも、Noワンに挙げる人が多いのが、本堂と開山堂をゆるやかに隔てるように、三の橋川が流れ、一帯の渓谷は洗玉澗といい、ここを結んで架けられた、紅葉の炎に浮かび上がった天へと通じる名橋、「通天橋」からの眺めである。




境内に繁る紅葉には、イロハモミジ、ヤマトモミジなどが多く、それらは優に二千本におよぶそうで、かえでの燃えるような朱色が、まるで下からわき上がってくるようである。その一部に、聖一国師が宋国から持ち帰ったと伝えられる唐楓は別名通天紅葉と呼ばれ、珍しい三つ葉楓は秋の深まりにつれ、艶やかな黄金色に染まるのである。通天橋の中央部分には張り出しがあり、ここからの眺めは最高とのことであったが朝一番といえど人だらけであった。橋からひとしきり大パノラマを堪能したあとは、渓谷のほうへ降りて、紅葉が繁る中を散歩したのである。600年前まで、この一帯には桜が植えられていたが、後世、遊興の地としてにぎわう桜は修行の妨げになると、すべて伐採し、もみじに植え替えられたと言い伝えられているそうである。それが上記のキャッチコピーなのである。



  

次に日本庭園史の研究家・重森三玲が残した名庭 東福寺方丈 本坊庭園「八相の庭」を鑑賞することに。方丈とは禅宗寺院における僧侶の住居であり、後には相見の間の役割が強くなったのである。広大な方丈には東西南北に四庭が配され「八相成道(釈迦の生涯の八つの重要な出来事)」に因んで「八相の庭」と称している。禅宗の方丈には、古くから多くの名園が残されてきたが、方丈の四周に庭園を巡らせたものは東福寺のみとのこと。昭和14年(1939)に完成されたもので近代禅宗庭園の白眉として広く世界各国に紹介されている。


方丈庭園の拝観は、庫裏で受付をし庫裏と方丈を結ぶ渡廊下へと向かう。方丈東庭は渡廊下の右側にある。狭い空間の中に七つの円柱の石組みと天の川を表す白川砂、苔、生け垣を配し夜空に輝く北斗七星に見立てている。この円柱はもともと東福寺にあった東司(トイレ)で使用されていた礎石とのこと。
  

東庭を眺めたあとその後ろに広がるのが、広さ210坪の枯山水庭園である南庭である。古来中国大陸の蓬莱神仙思想では、東の大海の彼方に仙薬財宝があると信じられた仙人が住む「蓬莱」「方丈」「瀛洲」「壷梁」と呼ばれる四仙島を巨石で配し、渦巻く砂紋によって「八海」を表しているモダンな空間に。正面に建つ向唐破風の表門は昭憲皇后の寄進と言われ、明治期唐門の代表作である。



 北庭へ続く途中には「通天台」と呼ばれる舞台が設けられ、ここでも眼下に渓谷「洗玉澗」を一望できるのである。サツキの刈込みと葛石で表現された「井田の庭」とも呼ばれる西庭の立体的な市松模様から、北庭はより刻みのあるウマスギゴケの緑との対比も色鮮やかな市松模様の敷石はサツキの丸刈りとの調和の妙も印象深く、彫刻家・イサムノグチはこの庭を「モンドリアン風の新しい角度の庭」と評した。釈迦の入滅までを表したもので、最初は規則性のある市松模様が、どんどん崩れていき散り散りに。そして一つずつの石が東へと消えていく。背景の紅葉の赤色と唐楓「通天紅葉」の黄金色とが織り成す色彩感あふれる空間となっている。



  

方丈の裏の方にある龍吟庵に向かうと東福寺三名橋のひとつで日本百名橋「偃月橋」からの遠景は他の二橋から離れた場所にあるので混雑しにくく、紅葉に包まれた境内の渓谷をゆっくりと落ち着いて鑑賞できるのが嬉しい。



  

最後に応永年間(1394~1428)足利義持の再建で両側に山廊を設けた日本最大最古の遺構で国宝の三門を見て次を目指す。



  

再度「臥龍橋」を渡って皇室ゆかりの御寺「泉涌寺」方面に向かう。拝観を待つ行列は橋まで伸びていたのにはビックリである。

東福寺から泉涌寺の間に広がる東山泉涌寺地区は、京焼・清水焼のふるさとで、「泉涌寺窯元もみじまつり」と銘打ち約50軒あまりの窯元が集い、いつもより5~7割安い大特価での大陶器市が開催されていた。時間がまだ早くて準備で大変そうであったが、ここで買っては荷物が重い?歩くこと20分、いよいよ泉涌寺の寺域に入ってきたのであるが、今回は京都の紅葉ということで入山料がかかることからお金を払うところを絞りに絞ったので、ここでは泉涌寺ではなく無料の紅葉穴場SPOT「新那智山 今熊野観音寺」へ。


今熊野観音寺は泉涌寺の塔頭なので三門はなく、朱塗りの鳥居橋が見えると入口である。

杉並木を進むとかなり大きな子護大師像が目にはいるが、弘法大師が創建したお寺なので弘法大師像とも言われている。階段を上がった先にあるのが本堂。本堂横にある五色紅葉はひと月かけてじわりじわりと色づく紅葉で、徐々に色づく紅葉グラデーションが見られる場所なのだ。


西国三十三ヶ所観音霊場十五番札所で、真言宗泉涌寺派の塔頭。1200年程前の京都、弘法大師・空海は唐からの帰国後に東寺で修業をしていた時、東山に綺麗な光が見え、不思議に思った空海は、光の指すほうへ向かったところ、白髪の老翁が現れ、空海に一寸八分の十一面観世音菩薩と宝印を与え、その場を立ち去ろうとしました。空海はその老翁に何者かと尋ねると、「私は熊野権現で、この地の守護神となるだろう」と告げ、姿を消したとのこと。空海は熊野権現のお告げを受け、お堂を建立し、自ら一尺八寸の十一面観世音菩薩を彫り、その体内に熊野権現から授かった観世音を納め、ご本尊として安置したことが今熊野観音寺の始まりとされ、 「頭の観音様」と呼ばれ頭痛封じのほか、ボケ封じの観音様として有名である。



斉衡年間(854~857)左大臣藤原緒嗣が伽藍を造営したと言われ、カッコウが鳴く寺域は知る人ぞ知る紅葉の名所なのである。本堂東側の山上にそびえ立つ高さ16Mの多宝塔の「医聖堂」は医療と宗教が共に手を携え、健康に暮らせるように祈願して立てられたとのこと。しかし驚くほど観光客がいないので、ゆっくりのんびり紅葉鑑賞ができる穴場である。



  

東大路通に出て泉涌寺バス停から市バスにのって五条坂バス停で下車。五条坂から「清水寺」へ向かう坂が清水新道で、陶芸ギャラリーや藍染工房などの趣味の店も徐々に増え、アート散策が楽しめる穴場である。かつては清水焼の窯元が建ち並んだ場所であるため「茶わん坂」と名付けられた坂を上っていくと目的地である大定番の西国三十三ヶ所観音霊場十六番札所「音羽山 清水寺」に到着する。鮮やかな朱色の仁大門が出迎えてくれるここは世界文化遺産で拝観料は仕方ない。


パリやロスに ちょっと詳しいより 京都にうんと詳しいほうが かっこいいかもしれないな。(1993年秋)

清水さんも、ちょっと夜更かしする。それが秋なんですね。(2004年秋)


と、秋だけで2回も取り上げられている「清水の舞台」で名高い東山の清水寺は、「木津川の北流に清泉を求めて行け」の夢告から宝亀9年(778)大和の僧・延鎮上人が音羽の滝の上に庵を結び、千手観音を祀ったのが始まりで、その後延暦17年(798)坂上田村麻呂が長岡京の旧紫宸殿を移築して創建したと伝わる単立の北法相宗大本山で、かつては清少納言も参詣したという。年間500万人もの参拝客が訪れる京都随一の人気スポットである。


秋には音羽山の山裾一帯に広がる境内が赤く色づき、139本の古色を帯びた柱が支えている山際から前面に張り出しためずらしい懸崖造舞台の下に広がる錦雲渓もまさしく錦の雲がたなびいているかのような艶やかな情景になる。紅葉越しに市内を一望する舞台上の眺望も格別だが、奥の院と子安塔をつなぐ参道から望む、舞台と紅葉のコラボレーションもまた素晴らしい。燃え上がるような深紅の海原に浮かぶ名舞台がそこにある。



  

壮大な紅葉パノラマを満喫したら多少お腹も減り、少々お疲れ気味で、ここは京都、あんこスイーツと行きたいところである。漬け物や八ツ橋などの京みやげの店がずらりと揃い、呼び込みも盛んな清水坂を下って、日本三大七味のひとつ「七味屋本舗」の脇を北に下る石段が「三年坂」で、名の由来は大同3年(808)にできたからとも、子安塔に安産祈願に向かう参道に当たるため産寧坂と呼ばれたからともいわれる。




京都らしい風情を楽しめる散歩道の代表格で石段と緩やかなカーブを描く石畳の道沿いに、みやげ物店や食事処、料亭などが軒を並べている。妻は「甘党の店 かさぎ屋」を当初目指していたのだがたまたま見つけた、「甘党茶屋 みたらし梅園」に入ることにしたのである。これがなかなかのヒットであった。




間口は狭いが奥行きのある店内の最奥のテーブルに腰を下ろし、妻は「みたらしと黒糖わらびもちのセット」小生は「渋皮栗と黒糖わらびもちの特性あんみつ」を頼む。

ここはみたらし団子がメインという事を頼んだ後に気づき、小生は追加で頼むことにした。俵型の団子を焼いた香ばしさが引き立つようなタレにくるまれ、優しい味であった。




そのまま大正初期に開通した二年坂、正式名称二寧坂を歩いて八坂神社の前から祗園を目指す。最初目指していた「かざぎ屋」は二年坂の坂の途中にあったが、一時期、このあたりは竹久夢二が恋人と住んでいたといわれれ、竹久夢二も愛した懐かしの甘味屋らしい。




祗園」は八坂神社(祗園社)の門前町として開け、その後江戸時代になって茶屋町として開発された、京の粋と雅を伝える花街。町屋には繊細な京格子の連なりや犬矢来などが設けられ次第に奥の深い茶屋町らしい風情になっていく。巽橋から白川南通、新橋通にかけては伝統的建造物群保存地区に指定され、風情はる町並みが残る。整然と建ち並ぶ茶屋様式の町屋と巽橋のたもとの辰巳大明神や柳の揺れる白川が一体となって、雅な佇まいを披露している。と、ここで御飯を食べるのでもなく、雰囲気だけ満喫して、京阪三条から地下鉄東西線に乗って「蹴上駅」で降りる。



 

インクライン(傾斜鉄道)から疎水百選「琵琶湖疎水」の横を歩いていくと南禅寺境内にあるレンガ造りの「水路閣」にでる。東山の自然に溶け込む水路閣は古代ローマの水道橋を模したという不朽のグッドデザインで赤レンガの橋脚が優雅なアーチを描いて並び建つ姿は紅葉によく映える。


 

日本史という額縁に、1995年の紅葉がおさまっていました。(1995年秋)


鎌倉時代の正応4年(1291)に亀山法皇の離宮を禅僧・無関普門が禅寺に改めたのにはじまる臨済宗南禅寺派の大本山「南禅寺」で、室町時代には臨済宗京都五山の最高位に君臨した、栄えある歴史にふさわしい風格が漂う。一番の見どころは日本三大門のひとつで、下層は「天下竜門」上層は「五風楼」と呼ばれる三門は、藤堂高虎が大阪夏の陣で倒れた戦没者を弔うために寛永5年(1628)に再建されたものであるが、本瓦葺の入母屋造で高さ22M、雄大な禅宗様式を代表する門といえる。その大きさには驚かされるが、そこに紅葉が加わる秋の景色はさらに感動的であり、紅葉の赤と門の黒が鮮やかなコントラストを見せる。楼上から京都が一望でき、歌舞伎の「楼門五三桐」で石川五右衛門の「絶景かな・・・」でもおなじみ名所である。




ここは境内いっぱいに広がる大スケールの紅葉ドラマを見て、拝観料は次の「永観堂」のために節約である。なんと拝観料は1000円なのであるから。

 

今年という年は この景色で思い出すことに なりそうです。(1996年盛秋) 


ある日、このお寺の回廊で 修行中の僧の前に阿弥陀様が スッと現れ 振り返りざまに 「歩みが遅い 」と叱ったそうです。紅葉に見とれてばかりでいないで ちょっと私も 見返り阿弥陀様に叱られて行きます。(1996年盛秋 TVCM)


秋は紅葉の永観堂”とうたわれるほど昔から紅葉で名高い。正式には禅林寺といい、歌人である藤原関雄(805-853)の別荘地を、弘法大師の弟子・真紹僧都が譲り受け仁寿3年(853)に創建、10年後の貞観5年(863)に清和天皇より勅許と「禅林寺」の寺号を賜る。
  

当初は密教道場であったが、平安末期に永観律師が第7代禅林寺住職となり、浄土念仏を唱えて専修念仏道場となり、永観堂の名がついたといわれ、正式名称は浄土宗西山禅林寺派総本山禅林寺。敷地内には庭園があり、橋を渡りながら赤や黄色・・・そして放生池(弁天池)の周囲を埋め尽くす紅葉の景色や池に映る紅葉を眺めるのもまた風情がある。お寺に入り、庭園や軒先を彩る楓のしっとりと薫るような美しさでおおわれた釈迦堂や法然上人を祀る御影堂を拝観する。永観律師が念仏行を行っているとき、突然現れた阿弥陀如来が振り返って「永観、遅し・・・」とい言ったと伝わる逸話をもとに鎌倉時代初期に作られた高さ77cmの仏像、顔をななめ後ろに向けており「みかえり阿弥陀」と呼ばれている阿弥陀如来像を祀る阿弥陀堂(本堂)はもともと大阪四天王寺にあったものを豊臣秀頼が移築したものである。その手前から、曲がりくねった木の廊下「臥龍廊」を上っていくと真紹僧都を祀った開山堂がひっそりとある。途中、岩壁に張り付くようにして紅葉しているのが「古今和歌集」の歌にも詠まれた「岩がきもみじ」である。

「奥山の岩垣もみじ 散りぬべし 照る日の光 見るときなくて」 藤原関雄


ロマン派歌人与謝野晶子の歌集「みだれ髪」にも収録されている歌碑が放生池の袂にあります。後の夫与謝野鉄幹と恋のライバル山川登美子と三人で訪れた紅葉の永観堂で詠んだ歌が

「秋を三人(みたり) 椎の実なげし 鯉やいづこ 池の朝かぜ 手と手つめたき」




京都市内の眺望が素晴しい山上には多宝塔があり、境内を埋め尽くす約3000本ものもみじが多宝塔まで続く山肌を赤々と染め上げる様は圧巻である。1200年以上の時を経た今もやはり「もみじの永観堂」であった。



  

人ごみの中、流れにのるように熊野若王子神社から銀閣寺までの疏水沿いに続く1.5kmほどの小径で、哲学者の西田幾多郎や田辺元がこの道を歩きながら思索にふけったことから「哲学の道」と呼ばれるようになった散策路を歩く。




小径のすぐそばまで紅葉した木々が枝を張り、疎水の水面を彩る散りもみじの風景を眺めながら疲れた足を癒すため妻が目指したお店は「よーじや銀閣寺店」である。


 

大正時代の建物を利用し、貴重なしつらえもそのまま残るショップ&カフェで「抹茶クリームしるこ」という抹茶アイスに温かい抹茶をかけて食べるものがお目当てなのであったが、なんと、京都なのに、南都、2時間半待ちである。夕食の予約時間は18時であるので 15時の今からでは待てないし、食べていたら夕食が入らないのである。妻は泣く泣くかどうかは定かではないが、諦めて戻り始めることに。

 

夕食の予約を入れているお店が四条鳥丸なので丸太町通の岡崎神社前から市バスに乗ることにしてまずは「真如堂」に向かう。妻の足も限界に近づいていたのだが「真如堂」は隠れた紅葉の名所で「そうだ、京都、行こう」で紹介されて落胆した人が多かったそうで、大通りから奥まっているので、普段はとても静かで、1万坪の広い境内は自由に出入りが出来、参拝客以外にも、とっておきの庭のように過ごす地元の人が多く、大らかで、親しみのあるお寺なのである。


 

ご本名は真正極楽寺。「正真正銘のゴクラク」は、町角を曲がるとあったりするんです。(2002年秋)


真如堂」は紅葉の名所と知られる天台宗の寺院で、正式には真正極楽寺。寺名は正真正銘の極楽の寺という意味で、真如堂はもともと本堂の呼び名であったという。
永観2年(9849、戒算上人が比叡山常行堂にあった、平安初期に円仁が霊木で彫った天下三如来のひとつ阿弥陀如来を本尊として堂宇を建てたのがはじまり。本尊阿弥陀如来像は女人を救う仏で、「うなずきの弥陀」という別称で庶民に親しまれていてる。境内には三重塔、書院、元三大師堂、鐘楼などの伽藍が並び、大寺院の風格が漂っている。山門から本堂まで、ゆるやかに延びる参道の両側からは、赤く色づいた楓が降りかかり、三重の塔近くにある「はなの木」は黄、橙、赤と三色に変わるグラデーションが珍しい。空を覆い尽くさんばかりの紅葉のすき間から、優美な三重塔が顔をのぞかせるのである。




白川通でなく丸太町通にでるには隣の「金戒光明時」を抜けていくのが近い。


「暑い」「寒い」だけで 私の一年が終わるなんて、ジョーダンではありません。(2010年・金戒光明寺)


「黒谷さん」の名で親しまれている浄土宗の大本山。比叡山の黒谷を下りた法然上人が承安5年(1175)に草庵を結んで念仏道場を開いたことが起こりという。壮大な山門から石段を上ると、緩やかな丘の上に御影堂、阿弥陀堂、方丈、庫裏など18もの堂塔が威風堂々と建ち並ぶ。阿弥陀堂は、慶長10年(1605)、豊臣秀頼が方広寺大仏殿の木材を使って再建したものと伝えられている。なかでも蓮池院(熊谷堂)は、一の谷の合戦で平敦盛の首をとった熊谷直実の住房跡として知られる。「熊谷直実鎧掛けの松」も保存されている。幕末には京都守護職の本陣となり、会津藩主松平容保の宿舎となり、新撰組の名がここであたえられたのである。


  

ゆったりとした参道には紅葉がトンネルを作り、堂々たる山門を彩る。本堂横の大きな銀杏の木は、枝垂れるような枝ぶりが珍しく「逆さ銀杏」ともいわれるのだが、もうほとんど散ってしまっていて残念であった。

 

丸太町通の岡崎神社前から市バスに乗って四条鳥丸を目指したのだが、これが大渋滞で予約の18時に間に合うかドキドキものであった。

目指すお店は「京甲屋」。京町屋をリノベーションした、外観ではわからないバーみたいな空間で食事を楽しめるお店である。床に埋められた間接照明やら、鮮やかな若草色の座椅子など、あちこちの意匠に目を奪われる。祗園NITIや喫茶葦島を手がけた辻村久信氏のデザインによるものらしい。


  

カウンターに座り、予約していた6000円のコースをいただく。上は8000円、1万円、12000円とあるのだが、まずは始めの一歩である。マスターは元なだ万で修行して独立した、プロゴルファーの宮里優作に似たごっついお兄さんであったが、小生の前で料理を出してくれたのは板前さんには珍しい女性の方であった。まずビールで乾杯し、疲れた体を癒す。あとは当然日本料理には日本酒である。
  

「乾坤一 ひやおろし」を注文する。スキッとした辛口が料理に合うが、出てくる料理は鮪のトロの刺身に海苔佃煮風ジュレや鯛の刺身を黄ニラで、鱧の湯引き、松茸の土瓶蒸と定番の日本料理なのだが季節感はないような、あるような。(そこそこ美味しいけれど) 
  

メインは細長~い青緑色のお皿にのったこの店の名物焼八寸なのだが、何が盛られていたか忘れてしまった。写真を見てください。



 日本酒をもう少し飲みたくなって何がいいか聞くと高知の「南 ひやおろし」を勧められるが、まったく焼八寸にあわないのである。お酒自体は辛口でこくがあるのだが。〆に炊きたての土鍋ごはんを目の前でよそってもらえるたのが今日一番のご馳走で、嬉しいし美味しかった。妻にはおこげもはいっていたらしい。薬味は3種の中から選ぶのであるが、夫婦とも牛肉のしぐれ煮を頼む。これを御飯の上にのせて・・・

デザートも5種類の中から選ぶ。お勧めはわらび餅なのだが、梅園で食べたので今回は見送り、妻は焼リンゴで小生は何だったか。京料理ではなく、創作料理のように思えるが、小生にはメインのない女性向けのお店であるように感じた。本当に真に良いものを使っているのかは分からないが、京都の雰囲気が味わえるお洒落なお店で値段との折り合いを考えると○なのだろうと感じた。

 

さていよいよ本日のラストを飾るのが紅葉のライトアップである。再び市バスに乗り祗園でおりて趣向を凝らしたライトアップで有名な「高台寺」へ。豊臣秀吉の正室、北政所ゆかりの臨済宗建仁寺派の禅寺。秀吉の菩提を弔うために北政所が徳川家康の援助のもとに慶長11年(1606)に建立した。開山堂、霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭、表門、観月台は創建当時のもので重要文化財。方丈からは小堀遠州作といわれる庭園の中に秀吉遺愛の観月台を望める。秀吉と北政所を祀る霊屋では、高台寺蒔絵と呼ばれる桃山時代の漆工芸の粋を集めた装飾が華麗な姿を留めるのである。
  

ねねの道から台所坂と呼ばれる緩やかな坂道をのぼり高台寺境内に。東山有数の紅葉の名所は夜も格別。約1300もの照明が広い境内を余すことなく照らし、見応えのあるライトアップを楽しめる。




特に、毎年テーマに沿ったライトアップが行われる方丈前の「波心亭」は枯山水をアーティスティックなキャンパスに見立てた大胆な演出が見もので、今年のテーマは「悠久ー光と陰ー」ということで和傘をモチーフに色とりどりのLEDが照らし出す光景は前衛的で、ここが寺院であることを忘れるほどである。


 

予備知識なく高台寺の秋のライトアップに行ったのであるが池を鏡にして上下対象に目の前に広がる色づいた木々が描く世界をこんな風に紅葉で見たのは初めてであったが、今回ライトアップしなければ映し出せない世界があることがわかり見とれてしまった。

また、小堀遠州作の池泉回遊式庭園では、偃月池や臥龍池を取り囲む紅葉がライトに照らされ、昼とは打って変わって妖艶な表情になる。池の手前にひときわ美しい真っ赤な紅葉があり、その赤の水面への映り込みが見たくて池の周りを歩くと、臥龍廊や開山堂とともに、もみじは水鏡になった池に真っ赤に映り込み、逆さもみじとも、まるで魔法に掛けられたかのような幻想的な風景が現れたのである。


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一方で、傘亭や時雨亭へと向かう竹林は俗世間から結界された特別な気が漂う幽玄な雰囲気が漂う。しなやかに伸びた青竹が風に靡きながらさらさらと揺らめく風景に、また、闇夜の竹林の狭間に見え隠れする月を望みながら、静かなその明るさに、古くから続く日本の美意識を感じる。そこかしこに和傘が配されている様がいっそう悠久の想いを感じるのである。 闇夜に浮かぶ朱の別世界、今宵、古都の魔法にかけられて家路を急ぐことに。