葛城の道ハイキング「紀・記のゆかりの地 葛城古道を訪ねて」(奈良 御所) | サラリーマンおやじのさえずり小鳥っぷ(小旅行)

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5月に葛城山ハイキングに行って大好きな日本酒「風の森」を買って帰ったのだが、嫁と美味しく飲んでしまい来週長野に帰るので、また嫁と飲もうと思い御所に行くことにしたのである。要するにお酒のためにである。


御所市は金剛・葛城山麓に広がる緑豊かな町であり、古代豪族「葛城氏」の本拠地として栄え、「高天原」伝承地をはじめ、市内には古事記や日本書紀、万葉集に登場する由緒ある場所が点在しているのである。

白州正子著の「かくれ里」の「葛城のあたり」では、飛鳥は日本のふる里といわれるが、神武天皇以来、いやそれ以前から開けていた葛城地方こそ、大和文化の発祥の地だといえる。ただあまり古すぎて、山と山にまつわる物語しか残っていないのが、飛鳥や山の辺の道ほど人気のわかないゆえんかも知れない。正にそこのところが私の興味をひくのであって原始のままの風景や信仰ほど、人の想像力をそそるものはない。と記している。

ということで神話の里ののどかな田園地帯を行く「葛城の道」を歩くことに。この道は司馬遼太郎の著書「街道をゆく」第1巻にも取り上げられているのである。

 

奈良盆地は日本の政治・文化の中心として古くから開けた地域であり、 古代(6世紀以前)、この盆地に勢力をふるっていたのが、三輪一族と葛城一族のニ豪族で、東部に本拠を置いていた三輪一族が崇神天皇に始まる大和朝廷を興したとされる一方、 西の御所市一帯を本拠地にした葛城一族は、大和朝廷が成立する以前に葛城王朝を築いて国を治めたとされている。 また、御所市一帯は日本神話のふるさとともいわれ、神々が住まわれていた高天原は、その昔、高天山と呼ばれていた金剛山の山麓にあり、古くは葛城と呼ばれていたと伝えられているのである。
 

このように神々の時代から数々の史実の舞台になっただけあって、 御所市には古代豪族の鴨氏・葛城氏ゆかりの歴史的に貴重な遺跡や由緒ある寺社仏閣が数多く残っていて、金剛・葛城連山の山裾を南北に走る古道である「葛城の道」は、そうした数々の遺跡や社寺を訪ねる神話と歴史の舞台となったロマンあふれる全長13KMの散策路なのである。コースからは奈良盆地や大和三山も一望することが出来るのである。


モデルコース(近鉄てくてくまっぷ奈良ー24)では近鉄御所駅からバスに乗って風の森バス停で降りて御所駅に戻る約12KMのコースなのだが、小生が近鉄御所駅についたのが7:50でバスがないこと、帰りに疲れをとるため温泉に入っていきたいという理由から逆コースを辿ることにしたのである。

 

まずはスタート地点の「六地蔵石仏」を目指して駅から北に向かう。途中櫛羅にある「鴨山口神社」に立ち寄る。葛城山麓の扇状地、櫛羅大湊に位置する本社の社名・山口とは“山の登り口”を意味し、山口神社とは、古くから朝廷に皇居の用材を献上する山口祭を司った由緒深い神社で、祭神は、大山祇神、大日霊命、御霊大神、天御中尊をお祀りしている。「延喜式神名帳」には山口社は十四社(夜支布(柳生)・伊古麻(生駒)・巨勢・鴨・当麻・大坂・吉野・都祁・長谷・飛鳥・畝火・石村(磐余)・耳成・忍坂あるが、その内葛上郡の鴨山口神社が本社であるとされており、即ち式内の大社として格式の高い神社なのである。


 

本殿は、春日造桧皮葺(八尺に七尺)であり、拝殿は、瓦葺(五間に二間)であり、本殿に安置されている大日霊貴命坐像、御霊大神坐像は国の重要文化財に指定されている。


今日は梅雨の晴れ間で水分補給が大事なので途中コンビニでペットボトルを購入いざ出発である。櫛羅の猿目の集落を少し歩くと道の真中にたたずむ巨石に彫られた六体のお地蔵様がある。


六地蔵石仏と言われ伝承によると、この巨石は室町時代に発生した土石流によって現在の場所へ流れ着いたといわれていて、その後村人が極楽浄土を願ってお地蔵様を彫ったのだとか。しかしこの前に自家用車を駐車している村人や如何に?




ここから「一言主神社」までは田んぼの畦道を歩くのどかな田園風景の中を歩く。六地蔵から九品寺に至る麓の道を進むと、九品寺の手前あたりに田んぼの間を流れる用水路のそばに、小さな円筒状の塔が建てられていた。これが、「番水の時計」といい、中には時計が置かれていて、番水の時計により、当番の方が一定の時刻になると、用水路の水門が開けられる方向を調整し、水の流れを変え、それぞれの田んぼに万遍なく、水が行き渡るように配水を調整をするための慣行を守っているものらしい。この慣行は珍しいそうで、その背景には葛城山麓が堆積層の浅い扇状地で、水の浸透が早いなど水を上手く配分しなければならない地形状の問題があったためといわれている。



 

駅から丁度1時間九品寺に到着である。「九品寺」は楢原の集落にあり、聖武天皇の勅により奈良時代の僧、行基が開基したと伝えられる戒那千坊の一つである。この寺は境内や本堂の裏山に数多くの石仏があることで有名で、本堂の裏山には1800体とも言われるおびただしい数の石仏が整然とお祀りされていた。この「千体石仏」と呼ばれる石仏群は南北朝時代にこの地を支配していた豪族、楢原氏が南朝方の楠木正成公に味方して北朝側と戦ったとき、地元の人たちが味方の身代わりとして奉納したもので、そのことから、身代わり石仏とも呼ばれているとのことである。白州政子著のかくれ里では「奈良や京都の近くにあったら、たちまち有名になったであろうに、そういうものが人知れず埋もれている所が、葛城山のおもしろさであり、深さでもある」と言っている。




また静かな田園風景の中の杉木立の一角に立つ綏靖天皇葛城高丘宮趾と刻む石碑を発見する。



第二代緩靖天皇の皇居である葛城高丘宮の遺跡だと伝えられている地で、仁徳天皇の皇后・磐之媛の故郷ともいわれる。有名な『山背河の歌』のなかで、この地が詠まれており、「つぎねふや 山代河を 河上り わが上れば あをによし奈良をすぎ 小盾 倭をすぎ わが見が欲し国は 葛城高宮 吾家のあたり」(古事記)と書かれている。古事記、日本書紀によると、仁徳天皇の后磐之媛(古事記では石之日賣命)は、和歌山へ行っている間に天皇が妃として八田皇女(古事記では八田若郎女)を宮中に入れたことで激怒し、難波宮には帰らず、山城に向かう際に詠んだ望郷の歌だ。磐之媛は、葛城襲津彦(古事記では葛城曾都毘古)の娘で履中・反正・允恭天皇の母で、磐之媛の父葛城襲津彦は、神功皇后の命で新羅征伐に行ったりして活躍し、葛城氏の祖とされている人物なのだ。


 


いよいよ④葛城一言主神社に到着である。祭神は、一言主大神で全国各地の一言主神を奉斎する神社の総本山である。古事記によれば、雄略天皇が葛城山で猟をしたとき、同じ様相をして天皇と全く同じ所作で同じ言葉を発するものが出現し、名を問い掛けたところ、「吾は善事も悪事も一言で言い放つ神である」と神力を示し、恐れてこれを拝したのが一言主大神といわれる。一言の願いであれば何でも願い事をかなえてくれる神様として、地元の人達は親愛の情を込め「いちごんさん」と呼んでいる。また日本霊異記では、役行者に葛城山と吉野金峰山を結ぶ岩橋づくりを命じられながら顔が醜かったので夜しか働かず、完成しなかったという逸話が残されている。このあたりのことは謡曲「葛木」の題材になっているのである。



 

拝殿前には推定1200年の県下最大の銀杏の御神木「乳銀杏」があり、乳房が垂れたような気根が圧巻である。また境内には神武天皇がカツラで作った網で大和王権に抵抗した土蜘蛛一族(賊軍)をとらえ頭と胴と足を三つに切って埋めたという石(蜘蛛塚)がある。このことから葛城の地名ができたらしい。境内の「謡曲「土蜘蛛」と蜘蛛塚」と題する案内板には、源頼光の土蜘蛛退治のことが書かれている。



 

本来は参道を通ってくるのであるが逆に参道を下っていくことに。この参道の両脇は松並木になっていて木陰が嬉しい。「大鳥居からはるかむこうの山麓まで松並木の参道になっている。古街道の松並木が戦後急速にほろびつつあるが、もしそのほうの全国番付をつくるとすれば、ここなど横綱がはれるのではないか」と司馬遼太郎が絶賛した一言主神社の参道はとても横綱とは言い難く規模は小さくなったのではないかと思ったがどうであろう。



 

県道30号線の下をくぐり右折してしばらく歩くと醤油の香りが漂う、天然醸造の「片上醤油」の前を通り、百楽門の「葛城酒造」を過ぎたあたりから長柄地区に入る。背後に長々とのびる葛城山の尾根をひかえた名柄の地は、古くは長柄といい、それがいつしか転じて現在の名になったという。南北の旧高野街道と東西の水越街道の交差点として開け、ここには旧街道沿いに古い民家が軒を連ねていて、江戸時代の雰囲気を色濃く残している。なかでも「中村邸」は御所市内で最も古い建築物で、中世、吐田城主だった吐田越前守の子孫にあたる中村正勝が、慶長年間(1596~1615)頃に建てられた代官屋敷である。

江戸初期の家の造りである切妻段造、本瓦葺、六間取を今に伝えるこの建築物は、全国的にみても歴史的価値の高いもので、国の文化財にも指定されているのである。また、名柄の地には、末吉邸、久保邸など、江戸中期の特徴的な建物も多く、葛城山の麓に静かな町並をかたちづくっている。



 

その町中にあるのが⑤長柄神社である。長柄神社は天武天皇が境内で流鏑馬を観覧したと日本書紀に記されている由緒ある神社である。本殿は一間春日造、桧皮葺、円塗で本殿の庇には勇壮な龍の絵が描かれている。御祭神は大国主命の娘神の下照姫で地元では姫の宮と呼ばれているとのこと。



 

ここから「極楽寺」までが大変であった。モデルコースを逆にしたことを後悔したぐらいのだらだらとしたアスファルト道の上り坂で、この間40分の苦痛の時間であった。おまけに極楽寺に寄るのも坂道であった。集落の名前にもなっている浄土宗知恩院派の極楽寺は、天暦5年(951)に興福寺で名僧の誉れ高かった一和僧都が開いた寺と伝えられている。寺の縁起によると、金剛山の付近に光が放たれているところを見つけた一和僧都が、地中から仏頭を掘り出し、その地に祭った

ということである。


 

南北朝時代には楠木正成の祈願寺となり、南朝方の合言葉に「極楽寺」が用いられたという。慶長19年(1614)大和郡山筒井氏との戦火によって焼かれたが、焼け残り再興のきっかけとなった鐘楼門がユニークなお寺であった。ここで暫し休憩していざ出発、ここからがいよいよ「高天原」に突入でなのである。極楽寺の南にある北窪の集落からイノシシよけのフェンスをあけて入り、金剛山の山頂に向かう急な坂道を辿っていく。ここからがいかにも「これぞ古道」という雰囲気の山道なのである。



 

熊野古道のような林間の道を歩くこと30分、目の前がパッと開き、広々とした台地に出くわしたのである。ここが日本神話の舞台になった高天ヶ原の実在の地と伝えられている場所である。高天ヶ原は古事記が伝えるところによると、神代に皇祖神天照大御神が統治していたところで、ここから瓊々杵尊が日向の高千穂の峰に降臨したとされているのである。


高天山の中腹にある⑥橋本院は真言宗高野山の末寺で、建物のつくりが普通の寺と大分異なっているのが大きな特徴である。この寺は高台に建っており、眼下に奈良盆地を一望できるのである。寺縁起によれば、養老年間、44代元正天皇の勅により僧行基が開いた高天寺の一子院で、もとは奈良興福寺に所属していたのであるが、そののち高野山金剛峰寺に属し、真言宗の開祖である弘法太師を祀っている。行基が創建した高天寺は南北朝時代に焼き討ちされたため、以前あった場所から本尊の十一面観世音菩薩立像などを移したとされる後身寺院で、そのときにすぐ傍の池に橋があったことから、現在の「橋本院」という名になったとのこと。



一面観世音菩薩立像を本尊としており、木彫で540センチ、「生かせいのちの本像」として近郷の信仰を集めているとのこと。役行者が修行し、中国唐代の高僧、鑑真が日本へやってきたときに、四十五代聖武天皇が高天寺の住職に鑑真を任命したほどの格式の高い寺院で、金剛山転法輪寺七坊の一つとして、石寺や朝原寺とともに権威をもった寺であり、また奈良朝から平安朝にかけては、高天彦神社とともに広大な荘園と山林を有した寺でも有る。しかし今は・・・。門から見える院の塀の向こうの四季の茶花が美しい。


門を出て橋本院参道沿いには「史跡 高天原」の石碑が立つ。金剛山中腹、橋本院付近水田地帯一帯の高原台地で、人里とも街道とも隔離された状況が高天原伝承地にふさわしい風情をかもしている。遠く大台大峰連山を臨み、その昔役行者大峰山へ橋を架けようとしたという展望名所でもあり、正に別天地である。




ここから10分で⑦高天彦神社に着く。延喜式では最高の社格とされる名神大社に列せられる古社で、祭神は高天原に最初に出現した神の一柱であり、神話の中で出雲へ国譲りのための使者を命令した高皇産霊尊、別名高天彦神であり、大和朝廷に先行して葛城王朝を築いた葛城一族の祖神で、社殿後方の美しい円錐型の山、白雲峯(694m)、別名高天山をご神体としている。
日本神話の舞台になった高天ヶ原のこの伝承の地にある高天彦神社はうっそうと茂った杉の大木が両側に並んだ参道の奥、厳かな雰囲気の中に社殿をひっそりと構えていて、今も伝説の地にふさわしい神さびた風情を周囲に漂わせているのである。




高天彦神社の前にある鶯宿梅は昔、高天寺の小僧が若死したので、その師が嘆いていたら梅の木に鶯がきて、「初春のあした 毎には来れども、あはでぞかへるもとのすみかに」と鳴いたといいます。そこで、この梅を鶯宿梅と呼ぶようになったという。




また鶯宿梅から左に水田の畦道に入り、右に40Mという看板の先には蜘蛛窟がある。昔千本の足を持つという大きな土蜘蛛が住んでおり、時の天皇はお悩みであったので勅使がきて字猿伐から矢を射て殺したとのこと。土蜘蛛を高天彦神社の近くに埋めその場所を蜘蛛窟と呼んだとのこと。


またイノシシの柵から杉木立が続くひんやりとした急な下り坂である。これが最初であったらどうであったか?と考えながら下っていくと注連縄の下をくぐったところで舗装道路にでたのである。厳密にはここからが参道なのであろう。ここからは舗装道路になり、「高鴨神社」まであと20分程度である。


御所市内に「かも」と名のつく地名は多く、北は鴨都波神社のある旧御所町から南は鴨神の集落までの広い範囲に分布しており、この鴨神の集落にある⑧高鴨神社は古代の有力な豪族・鴨一族の発祥地であり守護神として祀った社の一つである。正面の石段を上り、拝殿でお参りをする。本殿に祀られる主祭神は、大国主命の子で迦毛之大御神とも称され、「葛木の鴨の神奈備」に座し、皇孫の守護をした阿遅志貴高日子根命(あぢしきたかひこねのみこと)をお祀りしている。古事記で大御神と称されるのは天照大御神、伊邪那岐大御神の三神であり、最高格の敬称で呼ばれており、死した神々をも甦らせるという神力に強い神様といわれる。
京都の上賀茂・下鴨両社をはじめ、広く全国に分布する加茂社の総社にあたるといわれ、老杉に囲まれて建つ三間社流造り檜皮葺の本殿は室町時代天文12年(1543)の建築で、国の重要文化財に指定されている。日本神話によると、鴨氏の祖は、八咫鳥に化身して神武天皇を道案内した賀茂建角身命なのだそうである。




白州正子の「かくれ里」でも「高鴨神社には、神さびた雰囲気がある。ことに神社の下の池に、金剛山が影を落としている景色は美しく、万葉によまれた葛城処女を連想させる」とある。


ちなみに拝殿横の石垣には燈籠が埋め込まれているとのことで目を皿のようにして探したのであるがみなさんにはわかったであろうか?



境内隣には葛城の道歴史文化館があり、葛城氏に関連する寺社や遺跡が集中する「葛城古道」の魅力を伝え、古道を訪れる人の憩いの場となるよう作られた施設であるが、入口を入った途端、蕎麦を食べている人ばかりで蕎麦屋にかわったみたいである。そういえば入口に「鴨神そば」の幕があった。




あとはお風呂に入って帰ることに。そのためにこのコース取りにしたのであるが「風の森バス停」のある国道24号まで出て国道沿いを歩くこと30分。目的地は「葛城の郷 かもきみの湯」である。葛城の鴨神奈備と称された「鴨」の地に人々が相集う場所として葛城の郷・鴨君之湯と命名している。葛城山系の麓に湧き出る温泉を引いた日帰り温泉施設で泉質はナトリウムー炭酸水素塩化物泉なのである。歩き疲れをを癒し、ストレスなどの心身疲労に効果が高いようである。しかし小生にとって、ようは風呂上りのビールが楽しみなだけなのである。




施設の前からバスが出ているので御所駅まで戻り、本当の目的「風の森」をGETして西宮に帰るとしよう。