川合康三『白楽天ーー官と隠のはざまで』岩波新書、2010年

白居易(はくきょい)、字(あざな)は楽天(らくてん)。唐・代宗の大暦七年(772)に生まれ武宋の会昌二年(846)に七十五歳の生涯を閉じる。有名であるけれど、この中唐の詩人には今まで縁がなかった。「白楽天を読むためにーーあとがきに代えて」を読んでみる。

「日本の文学に浸透した中国の詩人といえば、やはり白楽天の名が真っ先に挙げられるだろう。詩が書かれるはしから移入されたというのも、ほかに例がない。平安期の熱中の後、室町時代の五山文学では杜甫や蘇軾の方に関心が移り、江戸に入ると盛唐詩、続く宋詩の流行の陰に隠れた感があるが、しかし時期による愛好の変化とは関わりなく、白楽天はすでに和文学のなかにまで広く浸透していた」(P211)。

白楽天の家柄は中流下流の士大夫階級(P14)だったようで、科挙の恩恵を受けたようだ。進士科に合格して出世することになる。

同時に進士科に合格した白楽天と元稹(げんじ)の友情が詩に残っている。元稹は後に宰相となり、白楽天も宰相手前まで出世したというから、文人の力が大きい時代だった。

白楽天が編んだ文集は「諷諭(ふうゆ)」、「閑適(かんてき)」、「感傷(かんしょう)」、「雑律(ざつりつ)」に分けられ、「諷諭」と「閑適」を重んじたという(P143)。「諷諭」は『詩経』以来の伝統であるが、官人である白楽天の「諷諭」は世間一般の価値観や道徳観を出るところがないようだ(P112)。

「上陽白髪の人」は「楊貴妃の陰に隠れて寵愛を受けることもなく、一生を宮中で送った宮女の不幸をうたった楽府」(P103)である。

「宮女解放を唱えるのは常に「正論」であって、正論を吐くことに危険は伴わない。「新楽府」が批判を籠めた詩であるといっても、皇帝に対して直接刃を向けたものではないし、拠るところは反論の余地もない正しい立場である。この詩を読む人も宮女を大量に囲い込む非を論じる主題よりも、具体的に描き出された不幸な女性の身の上の方に共感を覚えたことだろう。外部と遮断され、化粧の仕方も身につけるものも往年の流行をなぞらえるままの宮女の姿は、なんともいたましい。こうしたディテールが、宮女の哀れさを生々しく浮かび上がらせている」(P107-108)。

諷諭とする主題に対して白楽天はストーリーテラー過ぎるのである。

川合康三(こうぞう)氏は白楽天の「閑適」を評価する。

「これまで詩にうたわれることがなかった日常生活のなかで得られるささやかな楽しみ、それを生きていることのよろこびとして味わい、言葉に写し取ったのが、白楽天の文学である。よろこびの感情を自覚的に文学に取り込んだことこそ、白楽天が中国の文学に付与した最も大きな意義であろう」(P6)。

『長恨歌』などの艶詩で有名な白楽天の別な面を知ることができた。

古典文学の意義を川合康三氏が書いているのをメモしておく。生きる喜びそのものである。

「中国の文人は先行する文学を取り込みつつ己れの文学として変容を加え、次に世代に伝えていく。古典文学の世界とはそのような継承と創新から成り立っている。それを読むことによって、わたしたちの一回かぎりの人生もふくらみを得られる。人が生きるのは個体としての生命が続く間に限られるのではない。人々が歴史のなかで積み重ねてきた時間、言い換えれば文化の蓄積のなかを生きることで、個体としての生命を超えた奥行きを享受することができる。文学はそのための手立ての一つにほかならない」(P188)。

神無月の頃は古都でをどりを見ていた。記憶は常に現在であるから、をどりの終わった夕暮れの景色だけでなく路地を足速に歩く音がついてくるは不思議ではない。そういう味わいの文章を読みたいと思うが、千宗室家元の『ひととき』の巻頭エッセイの続編が出ないかと心待ちにしている。

(購入後記)
道教はやはり難しいというより概論はもともと難しいのだ。そう思って、10講は時々読むことにする。

福島克彦氏の本は2冊目になる。近江の歴史ということで購入したが、丹波攻略もあり、むしろ、知識としては新鮮だった。山城の縄張り図がいくつかあるけど、解説がないと読み取れない。文献史料は読み下しなのでありがたい。

子安宣邦先生の本の出版祝いを市民講座の後の懇親会で行った。2018年4月から2020年2月まで市民講座で講義された内容が元になっている。私の時間もここに刻まれていた。

京都本は買わないはずだが、いつのまにか手にしていた。六曜社に前進があったのは初めて知ったが、京都本は些末なことが大事なのである。

魚躬正明氏のTwitterに乗せられて、社会学や法学の本をに手を出す。

『中庸』が手元にあると便利なので買っておく。

宮下志朗訳のエセーを読むことは最終章に入ったということだな。

毎年秋になると宮城谷昌光氏の小説が刊行されるのを楽しみにしていた。去年は『湖底の城』が第九巻で終わってしまった。すっかり忘れていたが、今秋は孔子である。神格化された孔子は書けないが、孔丘ならなんとかなるという。あとがきで挙げている資料が何とも少ないが、小説なのでそれでいいのだろう。もう30年以上毎年、宮城谷昌光氏が出される本を読み続けてきた。主人公が政治家でない人物はほとんどないと思ったが、孔丘もまた政治家の時期があった。

LOUISE GLÜCKがNobel Prize in Literatureを獲得した。詩人に栄光あれ!
ルイーズ・グリックだと鴻巣友季子氏がいう。グリュックと新聞にあるけど、ニュースではグルックとしか聴こえない。

徒然草を読むのは春か秋のような気がする。この本でもう少し深読みする。

リスニングは楽しいというより苦痛だ。加齢により高音域が聞こえなくなってきており、楽するために購入する。

何の気無しに本棚を眺めていて、虎の朱印が目に止まり買うことになる。黒田基樹氏の一般書は既に買ってあるのでもういいはずだが、止まらなかった。

【歴史】
福島克彦『明智光秀と近江・丹波 分国支配から「本能寺の変」へ』淡海文庫63、サンライズ出版、2019年第2刷

黒田基樹『戦国北条家の判子行政』平凡社新書、2020年

【思想】
神塚淑子『道教思想10講』岩波新書、2020年9月

子安宣邦『「維新」的近代の幻想』作品社、2020年

モンテーニュ、宮下志朗訳『エセー 1』白水社、2005年、2020年第10刷

宇野哲人全訳注『中庸』講談社学術文庫、1983年、2020年第53刷

【社会学】
筒井淳也『社会を知るためには』ちくまプリマー新書、2020年

【法学】
糠塚康江『議会制民主主義の活かし方――未来を選ぶために』岩波ジュニア新書、2020年

【京都】
横山聡『京都・六曜社三代記 喫茶の一族』京阪神エルマガジン、2020年

【文学】
宮城谷昌光『孔丘』文藝春秋、2020年

LOUISE GLÜCK "POEMS 1962-2012" Amazon Service International, Inc. kindle版, 2014

小川剛生『徒然草をよみなおす』ちくまプリマー新書、2020年

【語学】
阿部公彦『理想のリスニング 「人間的モヤモヤ」を聞きとる英語の世界』東京大学出版会、2020年

柴又帝釈天
2020年10月購入古書
神無月こそ読書の時か。しかし、読み始めてすぐに眠くなるのはもはや寿命を感じる。そうであるならば、気になっていた本を読むに限る。勉強のための本なぞは段ボール箱へGOだ。

(購入後記)
ヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』(岩波現代新書、2003年)の5巻本を手ぶらで読むのは難しいので、古書店で気になっていた鹿島茂氏の本を書肆スーベニアで購入した。雑誌『ユリイカ』に1995年1月号から12月号まで連載したものが元になっている。

ボワソナアドはボアソーナードと習った。日本の近代法学の父である。
Gustave Émile Boissonade de Fontarabie


【思想】
鹿島茂『『パサージュ論』熟読玩味』青土社、1996年第2刷

【歴史】
大久保泰甫『ボワソナアド』岩波新書、1977年

東京オペラシティ
2020年10月書籍往来
神無月の頃になると兼好の随筆を思い出す。

【歴史】
宮崎市定『古代大和朝廷』ちくま学芸文庫、1995年、2010年第3刷

黒板伸夫『藤原行成』吉川弘文館、1994年、2011年第2刷

笠松宏至『徳政令 ー中世の法と慣習ー』岩波新書、1983年

【思想】
福永光司『老子』朝日選書、1997年、2004年第3刷

森有正『内村鑑三』講談社学術文庫、1976年、1977年第2刷

サミュエル・P・ハンチントン、ミッシェル・クロジエ、綿貫譲治、日米欧委員会編/綿貫譲治監訳『民主主義の統治能力 日本・アメリカ・西欧ーーその危機の検討』サイマル出版会、1975年

【知】
オーウェン・ギンガリッチ、柴田裕之訳『誰も読まなかったコペルニクス』早川書房、2005年

この年はプロジェクトの始まりで、2007年まで没頭した。京都に行き始めた年でもある。

誰も読まないといえば、ニュートンの『プリンキピア』も今では読まれない本だと知ったのは、ブルーバックスで読んだ時だった。


森有正『内村鑑三』講談社学術文庫、1976年、1977年第2刷

この薄い本を手にしたのはいつだったのだろうか。秋田稔氏の解説と内村鑑三年譜を入れて97頁の文庫である。講談社学術文庫にはこの手の文庫がかつてはあったが、今は分厚い文庫本の代名詞となった感がある。

西欧的諸思想の激しい流入期の思想家である内村鑑三の信仰形成を振り返るのは、やはり難しいものがある。

内村鑑三の書いたものを読んでも、札幌農学校で強制されてキリスト教徒となったとしか分からない。何故という問いは意味をなさない。

「明治十年代において、日本は、かかる規模においてヨーロッパ的思考を受けとった人物を、その新しいキリスト教徒の中に、少なくとも二人もった。内村鑑三と植村正久とである。この二人において、ヨーロッパ的思考のもっとも広義における真に主体的な担い手を見いだした」(P16)。

植村正久(うえむら まさひさ)は『真理一斑(いつぱん)』や『神学通論』を読んだことがないので知らないが、森有正に論じてもらいたかった。

内村鑑三の実存について、「近代のニヒリズムの克服の試みとしての絶望的な実存とは本質的に異なり、ヘブライズムの中核を純真に体現した積極的実在として、人間の基本的な姿として、ギリシアのイデアリスムから現代の実存主義にいたるまで、西欧文明の根底を流れるヒューマニズムに、鋭く、深く、その全体的少なくともにおいて対立する、これもヘブライの昔から現代まで、西欧文明の根底を流れる宗教的実存の本質を示すものである」(P68)。

森有正は内村鑑三の実存はヘブライズムであると書いている。こういう基本的な術語は私の中では曖昧な言葉として処理しておくしかない。中村雄二郎の『術語集Ⅱ』(岩波新書、1997年)でもヘブライズムは立項していないし、索引にあるユダヤ教やユダヤ思想も断片的に触れているだけだ。人名索引にも内村鑑三は出てこない。

西欧文明とは何かという話として読みとるには余りにも短い本であるが、西欧文明の本質的なことを内村鑑三が受け止めて生きたことは伝わってくる。



中村雄二郎『術語集 ー気になることばー』岩波新書、1984年第3刷

段ボール箱を開けたら出てきた。懐かしいので暫く枕元に置いておくことにした。寝る前に2つ3つ読もうとするのだが、関連するところを読んだりして終わらなくなる。頭が冴えると眠れなくなるので、寝る前に読むのはやめたほうがよい。『玉葉和歌集』(1944年)を読んで寝ることにする。京極派の藤原為兼の撰で、2800首ある。



笠松宏至『徳政令 ー中世の法と慣習ー』岩波新書、1983年

以前読んだ早島大佑『徳政令 なぜ借金は返さなければならないのか』(講談社現代新書、2018年)で中世法の不思議さを感じたのであるが、なぜなぜ感は残っていた。

事務所でTVの下に何気に目に付いたのは笠松宏至氏の『徳政令』(1983年)であった。中世法について笠松宏至氏の本を読んだ記憶は残っていたが、『徳政令』の記憶は全くなかった。だいたい1983年は私の転機となった年であり、実務以外の本は1979年が最後になったと思っていた。本を読み出すのは山が終わった1995年からである。

本書は永仁の徳政令を扱う。永仁五年(1297)当時の政治状況や訴訟について中世の法が語られるのであるが、笠松宏至氏はそもそも当時の人々にとって法の存在は知られていないと云う。幕府法は無名の存在であった(P8)。現代のように六法全書のない時代に法律を認識するすべはなく、六波羅探題の扱う訴訟に法の実在を御家人自らが証明する事例を挙げている(P6)。六波羅探題にそもそも訴訟解決能力がなかったのはどこかで読んだが、法が自明の存在でないことまで思い至らなかった。

永仁の徳政令の全文(漢文の読み下し、現代仮名遣い)を読んでみた。

関東御事書の法(永仁五年三月六日)と関東より六波羅に送らるる御事書の法の写しが東寺伝来の百合文書として伝わっている。笠松宏至氏の口語訳を読んでも難しいと感じた。漢文でこれを読めるのは相当教養があるものでないと無理だと思う。しかも、改竄まであると云う。

話は逸れるが、笠松宏至氏は吾妻鏡の中に偽文書が紛れ込んでいることを指摘し、偽文書の目的が永仁の徳政令の適用のためであるとし、吾妻鏡の成立は永仁五年以降であると考えている(P14)。吾妻鏡の編纂者は偽文書であることに気が付かずに記事にしてしまった。吾妻鏡の成立がそのような事情であるとすると、吾妻鏡は史料批判しなければ使えるものではない編纂物に過ぎないことが納得される。

こういう講義なら何時間聴いても飽きないに違いない。

注)2018年10月2日『徳政令』(2018)





東京オペラシティ アートギャラリーで『生誕100年石元泰博写真展 伝統と近代』を観てきました。16に区分された展示でした。4階の第1会場から、3階の第2会場に降りてくるという順路でした。

守山友一朗氏の明るい油彩の画のある廊下を通って石元泰博写真展の会場です。ところどころで写真が撮れますが、全景を写しても仕方がないので撮りませんでした。

1.初期作品
最初の展示は戦前にサンフランシスコで生まれた石井泰博の写真帖(1940年)でした。No.1〜4写真帖

2.シカゴⅠ
No.41 ビーチで水着の後ろ姿を写した写真が面白かったのでポストカードを買ってしまいました。

3.東京Ⅰ
No.55 街で見たもの は猫でした。

4.桂離宮
研究所にある写真集で見ているので、No.93 桂離宮 御輿寄前庭 延段と飛石は良いと思いました。

8.周縁から
No.188御陣乗太鼓(輪島)

9.ポートレート
No.208四谷シモン

12.両界曼荼羅
パネルが圧巻でした。研究所にある写真集とは違って壁面に貼られた写真集は大迫力です。

13.歴史への遡行
No.406 国東紀行 古園 大日如来像

16.伊勢神宮
No.458 伊勢神宮 外宮 正殿 西側面棟飾
千木(ちぎ)のことです。

ポスターが石元泰博のセルフポートレートだったのは、何故なのか。いつもなら買う図録も若者達への言い訳が浮かばないためパスして、ポストカードを選ぶことにしました。

コロナのため事前予約制でしてが、前日に予約できました。開場が11時という中途半端な時間でもあり空いていました。


若松英輔『井筒俊彦 叡智の哲学』慶應義塾大学出版会、2011年、2014年第4刷

井筒俊彦の『意識と本質』(岩波文庫、1991年)を読もうと段ボール箱を開けたら、若松英輔氏の本が出てきた。これを読みながら、週末に心当たりの箱を開けて『意識と本質』を探そう。若松英輔氏の引用もページがないので本のどこに書いてあるか調べないといけない。

第六章 言葉とコトバ
第九章 『意識と本質』
第十章 叡智の哲学

井筒俊彦が使う「コトバ」が何であるかつかめないと読み続けるのが難しい。『意識と本質』にある「意識の構造モデル」をどう理解するかが重要だ。井筒俊彦は「コトバ」と「言葉」と使い分けるのは『意識と本質』以降であると若松英輔氏は云う。さらに「意味」がまたやっかいである。これらの「術語」を確認しながら読む準備をする。

若松英輔氏は云う。
「「意味」という言葉も、井筒俊彦が用いると、単語、文章、あるいは現象の指示内容ということに留まらない独自の術語となる。「意味」は混沌から生まれ出る存在の相貌、存在者の「顔」。一つとして同じものがない固有者である」(P379)。

若松英輔氏の指摘で「言語哲学としての真言」の講演録にあった「ヨハネによる福音書」に関する記述が削除されていたことが分かった。『意味の深み』に収録した「意味分節理論と空海」を読んでいて、「存在はコトバである」という命題にこれほど相応しいものはないと思われるが、何故か井筒俊彦は削除した。なお「存在」は絶対超越者の異名である(P221)。

若松英輔氏は井筒俊彦の訳を「言語哲学としての真言」から引いてくる。

「太始(はじめ)に〔中略〕コトバがあった。コトバは神のもとにあった。というより、コトバは神であったのだ。ありとあらゆるものがこれによって成り、およそ成り出たもののうち、ただひとつもこらによらずに成り出たものはなかった」(P219)

ギリシャ語による「ヨハネによる福音書」の最初にΕν αρχηι ην ο Λόγοςとある。「初めに言葉ありき」と昔は習ったが、αρχη(アルケー)は初め、始源、原理である。Λόγος(ロゴス)は言葉と論理。そのような日本語はないのでロゴスとする。すると「初めにロゴスがあった」とでも直訳してみる。ロゴスはキリストでありコトバであるとすれば、真言は大日如来でありコトバであると見事に符合する。

井筒俊彦が何故「ヨハネによる福音書」の記述を『思想』(岩波書店)に掲載する時に削除したのかは若松英輔氏も指摘以上のことは書いていない。

「「存在」が「存在者」を「創造」するとき、「存在」は「コトバ」として自己展開する。コトバとは事象が存在することを喚起する力動的な実在、すなわち存在を喚起する「エネルギー体」に他ならない」(P221)。

「コトバ」の比喩として若松英輔氏が以下に書いている。

「叡智(ヌース)も霊(プネウマ)も「心真如」も、彼には「コトバ」の姿をもって現れた。井筒俊彦の「コトバ」は、言語学の領域を包含しつつ超えていく。バッハは音、ゴッホは色という「コトバ」を用いた。曼荼羅を描いたユングには、イマージュ、あるいは元型が「コトバ」だった」(P222)。

「意味」もつかみきれない術語である。

「言葉は世界を意味的に「分節」する。また、意味分節はそのまま存在分節となる。なぜなら、「意味」とは事象に付される記号ではなく、「意味」が事象をつかむ、と井筒は考えるからである」(P228)。



黒田基樹『戦国北条家の判子行政 現代につながる統治システム』平凡社新書、2020年

黒田基樹氏の戦国北条家関係の15冊目の一般書である。戦国北条家の虎朱印「禄壽應穏」が帯にあったので、買ってしまった。私にとって3冊目の一般書になった。

虎朱印の「印文は「禄と寿、まさに穏やかなるべし」と訓み、領民の禄(財産)と寿(生命)を保証して、平穏無事の社会にする、という意味であった」(P15)。

統治におけるスローガンでは、織田信長の「天下布武」の印判も有名である。

昨今、判子の廃止の議論がでてきた。本書によると、「日本社会での印判使用は、古くは古代の律令国家にさかのぼり、天皇の御璽、中央官司の太政官印や地方官司の国衙印・郡衙印、あるいは寺社の印などが、公文書に押捺され、発行された」(P28)とある。

その後は、花押(かおう)というサインが平安時代後期から江戸時代まで用いられた。

判子の使用をもって判子文化とは言わないらしい。

「ただし、判子文化という場合には、統治機関の使用のみならず、民間の会社や庶民も一様にする状況を指」(P28)すため、百姓が印判を使用した江戸時代が起源だとしている(P29)。

その意味で、戦国北条家が現代の「納税通知書」に当たる文書に印判を使用したのは画期的だった。当時は村が納税主体であったから、後北条氏の祖にあたる伊勢宗瑞が永正十五年(1518)に出した書類の宛先は伊豆長浜村・木負(きしよう)村だった(戦北三五)。

注)戦北三五
『戦国遺文 後北条氏編』資料番号三五