アナザーストーリー《第1話》海霧しおり/苫小牧
──霧の輪郭──
苫小牧の朝。
海から吹いてくる風が、街をしずかに霧で包んでいた。
歩道の白線も、信号の向こうのコンビニも、ぼんやりと霞んでいる。
そんな“輪郭のあいまいな世界”を、しおりは静かなまなざしで眺めながら歩いていた。
白いマントの裾を手でそっと押さえ、
制服のポケットのなかには、木製の小さな羅針盤──
それは、彼女がずっと持ちつづけている“道しるべ”だった。
「見えなくても、ちゃんとそこにある」
そう思えるようになったのは、ある朝の出来事がきっかけだった。
彼女がまだ、小学校にも上がらない頃。
母と訪れた、坂の上にある樽前山神社。
そのとき突然、境内の裏手に迷いこんでしまい、
気づけば一面が白い霧に包まれていた。
木々も石段も、灯籠も、なにもかもが見えなかった。
心細さよりも、時間が止まったような感覚が印象に残っている。
──でもそのとき、確かに誰かの声がした。
「だいじょうぶ、こっちに道があるよ」
柔らかく、静かで、あたたかい声。
すぐそばにいたはずなのに、姿は見えなかった。
けれど、迷わずその方向に歩いていった彼女は、
まるで呼び戻されたように、本殿の前に戻っていた。
あれが誰だったのか、霧の幻だったのか。
いまでもわからないけれど、あの声だけは本物だった。
──それから。
しおりは、目に見えるものよりも
“見えないけれど確かに感じるもの”に、耳をすませるようになった。
通学路の途中にある樽前山神社は、
街のざわめきからほんの少しだけ離れた空気をまとっている。
朝早い境内。
鳥居をくぐると、霧が足元をすべるように流れていた。
誰もいない。
でも、“何もない”わけじゃない。
手を合わせると、風がすこしだけ動いた。
枝の先で、葉が一枚だけ揺れる。
空にはうっすらと太陽の気配。
そして、遠くで踏切の音。
どれもはっきりと見えないけれど、
しおりには、それらが“今、ここにある”とわかっていた。
「……わたし、ここにいるよ」
声に出すと、心のなかに少しだけ“灯り”がともったような気がした。
それは誰かに届けるための言葉ではなく、
忘れそうになる自分自身を、そっと呼び戻すためのもの。
見えなくても、たしかに在る。
その感覚を信じて、しおりは今日も歩いている。
まだ誰にも知られていない、「霧の輪郭」。
それは、彼女にとって“始まりの場所”だった。
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次回:
《第2話》──境界の手紙──
霧の向こうに届いた、静かな言葉の往復書簡。
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