最近、とある投稿を目にしました。

 

 

「私ってすごいでしょ!(ドヤッ)」ってなっている人に対して、「スピリチュアルな能力があるから、偉いわけではない。勘違いするな。」という感じの内容だったんですキョロキョロ

 

 

さらに加えて、(それを真に受ける人に対して)「自分を無力な人扱いするな」というようなことも書かれてました。

 

 

これに対して、ちょっと思うことがあったので、書いてみますチュールンルン

 

 

「私ってすごいでしょ!」と思っている人を“サービス提供者側”だとして、「自分は無力だ」と思っている人を“お客さん側”だとします。
 

 

この内容って、提供者側と、お客さん側の視点がごっちゃになると、矛盾がでてきちゃうのです。

 

 

「(提供者側が)私ってすごいでしょ!」って思うことと、「(相手側が)自分を無力化しない(=自分はすごいと思う)」ということは、ある意味、同じことだからです。


「私はすごいって勘違いするな!」と、「自分を無力化するな!」は、矛盾してしまいます。

 


この理論だと、提供者側を下げて、お客さん側を上げようとしているわけです。

 

 

私も、「自分を無力化するな!」っていうのは、わかります。

 

 

“お客さん側”だったとしても、自分を無力化する必要なんてありませんから。

 

 

単純に、その分野に関しては、助けてもらう側だったというだけです。


でも、“サービス提供者” に関しては、勘違いでもなんでも、「自分はすごい!」ってなっている人を、わざわざ否定して下げる意味はありません、よね?

 

 

「そっかー!すごいねー!」

 

 

でいいかなとちゅー

 


それだったら、この場合、受ける側の無力感をなくせばいいだけです。

 

 

と言いたいところですが、そこで分析を終わらせたらツマラナイので、もっと深く掘り下げていきますニヒヒ

 

 

おそらく、このブログを書いた方は、どなたかの「私ってすごい!!ドヤッ」を不快に感じたんだと思います。多分ね。

 

 

では、この、人に不快感を与えやすい“ドヤッと感”はどこから来るのでしょう?

 

 

私自身も、「私ってすごいでしょ!」な人が鼻につくこともありますが、それは大抵、「あなた達はまだまだ」みたいな見下し感がある時です。

 

 

「自分はすごい!!あなたもすごい!!」

 

 

って思えてる人って、あまり不快感を与えないと思うんです。

 

 

「あなたもすごい!」とまでは思えなくても、違いを認められるくらいの、相手への信頼感はある状態なら、です。

 

 

そうなってない人の中には、「お客さんをコントロール(無力化)しようとする人」も多いです。

 

 

やたら“縛りの多い師弟関係”を築こうとする人とかは、その部類です。

 

 

「私の言うことを聞かない人は上手くいかない」みたいなのもそうです。

 

 

なんとかして「自分はすごい!」を維持したい。あるいは、自分よりも人を下に置いて、「自分の方がすごい!」と思いたい。

(単純に信念が強くて、勝手に周囲の人がコントロールされちゃう人もいる)

これは不快感を感じる人もいるだろうけど、コントロールされてしまう人もいます。
 

 

なぜ、相手を信頼できないのか?

コントロールしたくなってしまうのでしょうか?

 

 

それは、実は自分への信頼感がないからです。

 

 

自分のことを、「条件付きでしか評価できていないから」です。

 

 

だから、本当の意味では、「自分はすごい(価値がある)」と思えていない。

 

 

「無条件で、本当に自分はすごい」と思えたら、自然と他者のことも信頼することができます。(心の底というか、無意識的に)

 

 

無条件で

 

 

ってところがポイントです。

 

 

条件ありきで、「(スピリチュアルな能力がある)私ってすごい!!」っていうのは、“その能力がない自分”も、“能力がない相手も”、下にみることになります。

 

 

ある日突然、能力が奪われてしまったら、その人は自分のことを“価値がない”と感じるでしょう。

 

 

結局、“人を上下でみる人”というのは、条件付きの自分しか受け入れられていないのです。

 

 

私も以前は、

 

 

“成績優秀な自分”

“モテる自分”

“可愛い自分”

“いい会社に勤めてる自分”

 

 

とあらゆる条件を自分につけて、自分を受け入れている気になっていました。

 

 

“成績優秀な自分”

→大学受験頑張れなくて、滑り止め以外ことごとく落ちる

 

“可愛い自分”

→アトピーが再発し、顔もろともボロボロになる

 

“モテる自分”

→モテるどころか引きこもる

 

“いい会社に勤めてる自分”

→パワハラ・セクハラに追い詰められ退社

 

 

と、どんどん自分につけていた条件を崩されてきました笑い泣き

 

 

その後は、

 

 

“お金が稼げない自分”

“空回りばかりしている自分”

“ただのオタクな自分”

“いびつな自分”

 

 

と散々向き合い、ようやく、

 

 

“何でもない自分”

 

 

を受け入れられたとき、ありのままの自分自身を直視できるようになりました。(今でも葛藤はたくさんあるけどw)

 

 

そうすると、不思議と、他の人もあまりジャッジしなくなってきました。

 

 

もちろん、“合う合わない”はあります!

 

むしろ、その感受性は強くなったポーン

 

(仙人みたく思われたら困るので強く主張w)

 

 

でも、「この人はこういう(考え・在り方の)人なんだなー、私とは合わないな」ってフラットにみられるようになりました。

 

 

正確には、ジャッジ(判断)はするけど、上下ではみてないって感じです。

 

 

別にいいとも悪いとも思わない、ただ違うだけです。

 

 

“違いのある他者を認める、尊重する”ということは、“変化していく自分や、どんな自分も受け入れる”ということと同じです。

 

 

まぁ、だからって、そう思わなきゃいけないということでもでもないんですが。

 

 

単純に苦しいというだけで。

 

 

ということで、

 

 

「(能力あって)自分はすごい!!!ドヤッ」な人も、「あの人はすごい・・・(私なんて)」な人も、なんでもいいんですけどねラブラブ

 

 

まとめかた毎回雑ですがw

 

 

それは、実際には

 

 

どんなあなたでも、存在するだけで価値がある

 

 

からですウインク

 

 

存在するだけで価値があるって思えなくても、自分を受け入れられなくても、ドヤってても、ムカついても、人に嫌われたって、嫌ったって、

 

 

別に全然、大丈夫です。

 

 

人間の価値なんて、みんな変わらないですから。

 

 

存在するだけで価値があるって、そういうことルンルン

 

 

※この元ネタ記事の方への反論では決してありません!ちょうどピンときたので使わせていただきましたラブ(読んでるかもしれないので、念のためハッ

 

 

以上ですルンルン