はじめまして!
母親の転移がんに日々格闘しています。
この転移がんのことは私と母、主人、主治医、信頼する親友の医師、信頼する同僚の看護師以外知りません。
母は、今年から実習が始まる娘(私の妹)や孫(受験)に心配をかけたくない。。と言います。
自分のせいで、迷惑をかけたくないと。
しかし、抗がん剤もしたくない。
しかし、娘が国家試験に受かる再来年までは知らせないでいいように生きていたい。
その思いを私が背負いました。
抗がん剤以外にこのがんと戦う術は!
私の今までに集めてきた情報を総動員しての挑戦です。
これでいいのかはわからない。
でも、何もしなければ後半年の命と宣告された今、手探りでも前に進まなきゃならない。
そんな日々の葛藤・格闘を今ここに残したいと思います。
簡単にですが、以下にここまでの経過を綴ります。
今年の1月に虫垂がんが発覚し、九州Gセンターでの戦いが始まりました。
当時私は母のいる実家から車で1時間くらいの市内で主人・小学生の息子と生活しており、
某総合病院でナースとして勤務していました。
時々電話で母の状況を確認している程度でした。
母は心配をかけまいとする性格で、たいしたことでは弱音をはかない人でしたが、
年末から調子が悪いともらしたことで一気に状況が暗転しました。
秋頃より下腹部の痛みが出てきてかかりつけ医に相談し、婦人科へ受診していました。
子宮筋腫の炎症だろうと、鎮痛剤と抗生物質の内服薬を処方。
一向に症状が治らないために再受診を繰りかえすも同処方と同診断。
1月に連絡を取り合ったときにそのことを耳にしました。
早速、総合病院の外科受診に行くように伝えました。
まずは、婦人科の診察に回されたようで、その婦人科医師の内診より、何か硬いものが触れるのでMRIをしましょうという流れとなり、虫垂がんが発見されました。
それからは、外科での検査三昧
切る気満々の医師にGセンターへの紹介を依頼したところ、
オペ後のフォローはうちではしませんので、他をあたってください。と言いながら紹介状をくださいました。
本人はすでに受け入れの許容範囲を超えすぎて、自分ががんであるという告知を耳にしてもがんであると認識できていないようでした。
ただ検査の前処置の説明を間違えないようにメモに残し、何度も確認してこなしていくので精一杯のようでした。
父がなくなり10年
独居の母は悲しみや恐れや心細さの中でくらしていたのでしょう。
年に数回しか戻らなかったことを後悔しました。
もっとそばにいてあげていたら、そんな兆候に気づいてあげれていたはず。
これからは母と一緒に戦う!と家族の協力のもと病院を3月で退職しました。
Gセンターへ入院してからも検査漬けの日々。
挨拶に来た担当医は外来初診の医師とは違う医師でした。
まだ30台の若く芯のしっかりした印象をうけました。
私たちはこの状況での手術を受けるべきかどうかまだ決めかねていました。
相当ひどい状況だったからです。
代替医療の情報も以前からなぜかたくさん入ってきていたので、すぐさま城南区の専門医に相談に向かいました。
がんの本も読みあさりました。
信頼する仕事仲間の医師にも相談しました。
でも、結論は私たち、いや私にかかっていました。
どっちに進めば正解なのだろうか。
これでよいのだろうか。
見えない迷路のなかでただ、直感にたどって進むしかありませんでした。
ほかを巻き込んでいる可能性も高い。
尿管を巻き込んでいればオペ後の排尿障害もやむをえないだろう。
骨に癒着している可能性は高く、骨まで削るかもしれない、感染の危険性うんぬん・・とのムンテラに
そこまでしなくてもよいのではないか・・と不安にかられる。
とにかく、オペ後に後遺症で苦しみながら闘病するのならこのままでよいのではないかと、
いや、どんな状況でも生きていてほしい・・。
でも、苦しんで生きている母がつらいのはかわいそうだ・・。
そんなに時間もないところであせりながら悩んでいました。
しかし、医師は切る気満々でした。
もはや、私たちの不安定な意思など気に留める余裕もなく、前だけを食い入りように見つめているかのようでした。
もう、この医師にすべてを任せようと親子で腹をくくりました。
一度目のオペでは15時間にも及ぶ大手術。
見える範囲では取りきれましたと。
切り取られた生々しいそれらを丁寧に説明する医師の蒸気だった姿に、感謝の思いで胸がいっぱいでした。
経過は思うより順調で医師も驚くほどでした。
しかし、一時的の人工肛門からの腸液が半端なく、このままでは点滴が外せないとのことで予定より早く閉鎖オペになりました。
このオペは数時間で終わるので大丈夫ですよ~といった感じでした。
医師の立ち話のような楽観的なムンテラと早すぎるオペ日に少々不安を抱きました。
が、延期してほしいというきちんとした理由も見当たらず決定しました。
やはりそのときの胸騒ぎは事実となってしまいました。
時間を大幅にオーバーしたのは、緊急応援医師と母の酷い癒着はがしに格闘されたようでした。
オペ後のムンテラでは、相当苦労したことと、縫合不全の危険は高いということでした。
縫合不全の兆候を毎日この目で確認をとりに面会に行きました。
ドレーンの排液の色が黄土色になり、それを確認した医師の青ざめた表情がいまだ忘れられません。
友人から大変なことになったね・・という言葉をかけられたときは本当に苦しかった・・
誰にも打ち明けられないまま孤独に気丈にしているのが精一杯でした。
奇跡的に乗り越えた6月の退院時は再発の兆候もなくみんな満面の笑顔で自宅に戻りました。
ホッとしたのもつかの間
3ヶ月検診の胸部CTにて数ヶ所に転移が見つかりました。
医師の動揺は隠せないようでした。
10年前には父を肺がんで見送りました。
後悔ばかりの日々でした。
今回はそんな想いはしたくない。
悔いなく支えたい。
私はナースとして、多くの患者さんに接してきました。
今度は母専属ナースとして母に寄り添いたい。
今までの経験と知識と情報を総動員してがんを退治するぞーーーーーーー
現在と当時を振り返りながら、そんな手探りな親子の日常を綴ります!
もし、同じような境遇の方がいらっしゃいましたら仲間になってください。
力になってください。
本人の苦しみは本人しかわかりませんが、家族の苦しみ・・ようやく私もこころから理解できるようになりました。
これからどうぞ宜しくお願いします・・・*
がん克服研究所in福岡
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