主日の聖書 新約聖書 | 生き続けることば

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新旧約聖書の言葉をご紹介する他、折に触れて宗教関連書、哲学書、その他の人文系書籍、雑誌記事の読後感などを投稿いたします。なお、本ブログ及び管理者は旧統一教会、エホバの証人、モルモン教等とは一切、関係がありません。

【中心聖句】

すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父に家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」(49節)

 

4つの福音書はかつて「マタイ伝」「マルコ伝」「ルカ伝」「ヨハネ伝」と呼ばれていました。 これは文語訳聖書に倣ってのことだと思います。

 

そのためでしょうか、一般の人はもちろんクリスチャンの中にも福音書はイエス・キリストの伝記である、と思っている人は案外、多いかもしれません。

 

しかし、どの福音書を読んでもイエスの幼少期や青年時代には殆ど触れていません。

 

それどころか、マルコとヨハネはイエスの誕生の様子には全く触れず、いきなり洗礼者ヨハネとイエスの出会いの場面から始めているほどです。

 

そこで、19世紀後半から特にヨーロッパの神学者の間で聖書以外の資料も用いてイエスの歴史上の人物像を再構成しようとする試み、いわゆる「史的イエス」の議論が熱心になされました。

 

中にはイエスが青年時代をヒマラヤで過ごしチベット仏教の修行をした、などという「トンデモ説」もありましたですが、興味が尽きない分野ではありますね。

 

今日の箇所は12歳になったイエスが両親たちと共にエルサレム巡礼に出かけ、神殿で学者たちと話しをしている場面です。この場面での少年イエスの言葉がイエスの最初の言葉ということになります。

 

雨宮慧神父に従って、上に引用した49節から3つの言葉を学びましょう。

 

まず、「自分の父の家」ですが、実は原文にはἐν τοῖς τοῦ Πατρός μου「家」という言葉はなく、雨宮神父はこの部分を敢えて直訳すれば「『わたしは自分の父(から)のものうちにいなければならない』となる」としておられます(雨宮慧『主日の福音(C年)』p.47)。要するに、エルサレムの神殿での出来事であっただけに文脈上「父の家」と意訳するのが最も自然ということでしょう。英語の聖書でも概ね” in my Father’s house”(RSV)などとなっています。

 

ところが、雨宮神父によると「父から与えられた仕事」としている訳もあるとのことです(同上)。実はそう考えるとこの言葉に一層の深みが与えられます。少年イエスには既に「自分は父から与えられた仕事を遂行する者」つまりメシヤとしての自覚が芽生えていた、ということになるわけです(同上)

 

次に「当たり前だ」という言葉で、原語では「...しなければならない」「必要だ」を表すδεῖです。この言葉には「ある出来事が必然的に起こる」という意味もあるのです。

 

要するに、今日の福音箇所でイエスは「自分は神の家にいるのが必然(=神の意志)だ」と言っていることになります(雨宮慧『主日の福音(C年)』p.46)

 

そして、三番目の「知らなかったのですか」οὐκ ᾔδειτεです。

 

これは文法用語でいうと「否定疑問文」ということになります。

それに対する答えとしては肯定と否定の二通りがあり得ますが、雨宮神父によれば、今日の箇所では初めから肯定を期待したイエスの言葉ということです( 同上)。

 

ですので、この「知らなかったのですか」は実は「あなたがたも既にご存知のように」という意味になるというわけです。イエスにとってみれば、彼が彼の父の家にいるということは、両親も知っていてよいほどに自明な事柄(同上)でした。

 

神への従順を肉親への従順に優先させねばならぬ時が来ることを明確ではないにせよ、既にイエスは自覚していた(同p.48)ということになります。