主日の聖書 旧約聖書 エレミヤ書33章14〜16節 | 生き続けることば

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【中心聖句】

その名は「主は我らの救い」と呼ばれるであろう。(16節)

 

 

今日の朗読の冒頭には「見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みを果たす日が来る」(14節)というYHWHの言葉が記されています。

 

エレミヤ書30章には同様の言葉として「見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る נ(3節)と記されています。

 

「イスラエルとユダの繁栄を回復する」というYHWHの言葉は30~33章には度々出てきますが、雨宮慧神父によればそれは「捕囚民の帰還とエルサレムの復興を預言している」(『主日の聖書解説<C年>』p.8)ものであり、そこから「30-33章は『慰めの書』と呼ばれて」(同上)います。

 

14節に「わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる」という言葉が書かれています。

 

「若枝」といえば「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

/その根からひとつの若枝が育ち」というイザヤ書の一節(10章1節)が思い起こされますね。

 

また、「ダビデの最後の言葉」という見出しがつけられているサムエル記下23章には「すべて神は芽生えさせてくださる」(5節)と記されています。

 

この「芽生えさせるצָמַח」という動詞の名詞形が「若枝צֶמַח」ですが、「若枝צֶמַח」はここでは「ダビデ王の子孫の王」を指す隠喩となっています(雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』p.9)

 

さらに、15節には「正義」という言葉が2度使われています。

「正義」は一般的な日本語では「人がふみ行うべき正しい道」(広辞苑)を意味していますが、聖書における「正義צְדָקָה」は「神と人との関係、人と人との関係の誠実さ」を意味しています。(同上)

 

16節の最後に『主は我らの救い』という主の言葉が記されています。この救いの原語はצֶדֶקつまり「正義צְדָקָה」と実は同根( צָדַק)なのです。

 

私たちの日本語感覚からすると「正義=救い」という図式はちょっとピンと来ませんが、「『救い』は神や人との関係への誠実さの結果」ということになるわけです(同上)

 

なお、代表的な英語聖書の一つRevised Standard Versionでは ”The Lord is our righteousness.”(「主は我らの正義」 -  私訳)とされています。