【中心聖句】
人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(45節)
2人の弟子、ゼベダイの子ヤコブとヨハネはイエスの前に進み出て「栄光をお受けになるとき、わたしどのも一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と懇願しました(35〜37節)
普通に考えれば、この2人はイエスがいよいよ権力の座に登った暁には自分たちを「右大臣、左大臣」に任命してくださいと頼んだと読めます。
しかし、今日の福音朗読箇所に先立つ箇所を読みますと、32〜34節にイエスの「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」という「受難予告」が記されています。
ですので、さすがに弟子たちもそこまで能天気ではなかったでしょう。彼らはイエスと共にエルサレムに入城した後に待っているに違いない迫害については薄々、気がついていたに違いありません。しかし、迫害を受け殺されるようなことがあっても、その先には栄光が待っている、逆に言えば栄光を受けることが出来ないのであれば苦難の上の死はただの犬死にと考えていたところに彼らの限界があったということになります。
彼らの懇願に対してイエスは「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」(40節)と答えました。この「許される」は原文では ἑτοιμάζωという動詞の受動態になっているのですが、これは神を口にせずに神の行為を語るための婉曲的な表現である「神的受動態」と考えられ、誰が座るのかを決めるのは神であり、イエスでさえ誰になるかは知らないということです(雨宮慧『主日の福音(B年)』p.273)。
結局、「過酷な運命」に耐えたとしても「栄光の座」が保証されるわけではないということです。「わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受ける」(39節)という言葉によってイエスは弟子たちの目を「栄光の座」に対してではなく、イエス自身に向けさせようとしたのでした。
イエスが父なる神によってこの世に遣わされたのは「多くの人の身代金として自分の命を献げるため」(45節)ですから、そのようなイエスに仕え、イエスと共に苦難の道を歩むことにこそ価値があるのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.284)

