【中心聖句】
わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です(18b節)
ヨシュア記にはモーセの後継者に選ばれたヨシュア(ヨシュア記1章)がヨルダン川を渡って約束の地カナンに入り、そのすべてを獲得して死ぬまでのことが書かれています(雨宮慧『図解雑学 旧約聖書』p.96) これを大きく3つに分けると
・1〜12章 ヨシュアに率いられたイスラエルの民が約束の地を一気呵成に獲得する様子
・13〜22章 土地が各部族・氏族に分け与えられる様子
・23〜24章 ヨシュアの遺言とシケムでの契約、ヨシュアの死
(同上)
このヨシュア記に描かれているヨシュアをリーダーとするイスラエルの民による「約束の地カナン」征服が歴史上の事実であっtかどうかということに興味をそそられます。
例えば6章には新共同訳聖書では「エリコの占領」という見出しがつけられ、イスラエル人が角笛を合図にエリコの町に突入してそれを占領し住民だけではなく家畜までも尽く殺戮したと書かれています(20〜21節)。
これは紀元前13世紀半ばの出来事と想定されてきたのですが、20世紀に数度行われたエリコ及びその周辺の大規模な発掘ではエリコが破壊されたのは紀元前16世紀半ばであり、紀元前13世紀にはエリコやアイ(8章)、ギブオン(9章)などはほとんど廃墟であり、しかもそれはイスラエル人によって引き起こされとはかぎらないという有力な説もあります(Finkelstein and Silberman "The Bible Unearthed"pp.81〜83)
閑話休題(それはともかく)。
今日の朗読箇所の後半でヨシュアがイスラエルの民に「主に仕えよ。もしそうしたくないなら、自分が仕える神は自分で選べ。ただし自分と自分の家族は主に仕える」(14〜15節)と宣告したのに対して、イスラエルの民は「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません」(16節)と応えます。
そして、今日の朗読箇所の後になりますが、ヨシュアはシケムという場所でイスラエルの民と契約を結ぶことになります(25節)。この「シケムの契約」(もしくは「ヨシュア契約」の特徴は「仕える神をイスラエルの民が自覚的に選択したことにある」のであり、「イスラエルを一つにまとめる原理は、血族や境遇の一致ではなく、彼らが選択した神にある」のです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.238)
なお、このヨシュア記について社会学者の小室直樹が「神父も牧しも...『ヨシュア記』は教えない。この『ヨシュア記』にこそ<宗教の秘密>は隠されているのだ...」などと『日本人のための宗教原論』で書いています。これは曲解も甚だしいことは言うまでもありません。なにしろ旧約聖書だけで39巻、新共同訳では2段組で1,500頁に及ぶのですから、一年に50数回という限られた主日及び特別礼拝・ミサにおいて取り上げられることが少ないのは当然です。他の主要文書に比べてヨシュア記のプライオリティが相対的に低いだけの話です。
この『日本人のための宗教原論』はキリスト教、イスラム教、仏教、儒教を取り上げているのですが、本ブログは他宗教については知識が乏しいため論評できないとしてもキリスト教について本書は記述はデタラメの限りを尽くしています。この小室直樹という人物、なぜか保守的論壇では高評価を受けていたようなので、いずれ時を改めてじっくり論破したいと考えています。


