日航123便が群馬県山中に墜落し乗員乗客520名の死者を出すという大惨事から39年の月日が流れました。
本書はノンフィクション作家・門田隆将氏が事故から25年経った2010年に「風にそよぐ墓標 父と子の日航機墜落事故」(集英社)として上梓した著書を改題、加筆、再編集して小学館文庫として出版したものです。
副題に「父と息子の日航機墜落事故」とあるように、本書には著者自身の言葉を借りれば「『息子』として遭遇したあの事故について、二十五年経って『父親』となった男たち」にとってあの悲劇がどういうものであったか、そしてそれをどう克服していったか、が記録されています。
まず、第一章は「戦士は戻りぬ」と第するプロローグで、著者が作間優一氏と共に御巣鷹山に登るところから始まっています。
作間氏が御巣鷹山に登るのは事故後25年経って初めてのことでしたが、実は作間氏は元陸上自衛隊第一空挺団二等陸曹で「ミスター空挺」と言われた人物でした。
日航123便の墜落事故では奇跡的に4人の生存者が救出されましたが、そのうちの1人、川上慶子さん(当時12歳)が陸上自衛隊隊員に抱えられてヘリコプターに吊り上げられていく場面は大変に有名ですが、その時の自衛隊員こそ作間元二等陸曹だったのです。
作間元二等陸曹を初めとする部隊が現場に到着したのは一夜明けた8月13日午前8時50分頃でした。真夏ですので午前5時過ぎには空が明るくなって来ますので、もっと早く出動していれば更に多くの人が救助されたのでは、自衛隊上層部や政府によるd空挺団投入」の判断が遅すぎたのでは、という批判は出来ますが、それについては今日は深堀りいたしません。
この救出劇で作間氏にはマスコミの取材申し込みが殺到しましたが、もとより派手なことが嫌いな作間氏としては長い間、御巣鷹山登山を控えざるを得なかったようです。
第二章以降では、母・妹・叔父・従兄弟を事故でいっぺんに失い、8年後には父が47歳の若さで肝硬変のため死亡した事故当時9歳の少年や遺品の中から父の走り書きの遺書が発見された中学生(当時13歳)そして父に貸したカメラが遺品として回収された後、墜落直前の機内の様子も写っているフィルムが残っていた高校生(当時16歳)のその後の人生が描かれています。
特に第五章「検視する側にまわって」では、歯科医として同じく歯科医の弟と共に事故現場に駆けつけ検視に協力した青年のことが書かれています。実は彼らの父親も歯科医で兵庫県歯科医師会会長・専務理事と共に123便に乗っていたのでした。
彼らの懸命の努力にも関わらず事故から2週間経っても父親の遺体を自宅に持ち帰ることは叶いませんでしたが、8月26日に執り行われた葬儀の最中に群馬県警から指紋照合の結果、肘から先が切断された左手の指紋が父のものと一致したという連絡が入ったのでした。
最後の「おわりに」において著者は次のように書いています。
「寡黙な男たちが初めて語ってくれた壮絶な『父と息子』の物語は、多くの教訓に満ち、思いやりと愛情に溢れ、家族というものの素晴らしさを私に余すことなく伝えてくれた。毅然として生きた息子たちの姿を是非、自分たちの勇気と希望の指針にしていただければ、と思う」(p.273)
あの夏から39年経ち、残された「息子たち」の多くが亡くなられた父親の年齢を超えておられることでしょうが、今そのお一人おひとりはどのような思いであの夏の日からの人生を振り返っておられるのでしょうか。