【中心聖句】
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した(12節)
雨宮慧神父に倣って「そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け」(7節)の下線を引かれた言葉を考察しましょう。
まず、呼び寄せるです。この原語はπροσκαλέωで、ここでは現在形になっています。これは「歴史的現在」という用法で「過去の出来事なのに、まるで目の前で繰り広げられているかのように物語る現在」(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.209)です。
次に遣わすことにされたの原文はἤρξατο αὐτοὺς ἀποστέλλεινです。これは直訳すれば「遣わすことを始めた」ですが、始めたἤρξατοは動詞ἄρχομαιのアオリスト形です。
アオリスト形とはある事実が過去において一応片付いてしまったものとして言い表す時称ですが(田中美知太郎他『ギリシア語入門 改定版』p.36)、ここでは「ある状態への進入・開始を表す」ので十二人の派遣によってイエスの活動が新しい段階に入ったということを示しています(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.209)
そして、授けἐδίδουは授けるδίδωμιの未完了相ですが、動作の反復・継続を表すことから、ここでは二人の組毎に別々に権能 ἐξουσίαを与えたことを示しています(同上)
続く8〜9節は伝道旅行の持ち物についての注意であり10〜11節は伝道地での注意ですが、興味深いのは「しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい」(11節)という言葉です。
足の裏の埃を払うというのは異邦の汚れを落とすという意味があります。つまり弟子達すなわち宣教者達の言葉を受け入れなかった街は異邦と見做されます。彼らに対する態度が人々の運命を決することになるのです(雨宮慧『主日の福音(B年)』p.218)
ἀποστέλλω


