【中心聖句】

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族のの間だけであると言われた」(4節)

 

弟子たちを伴って故郷の村に帰ったイエスは安息日に会堂で教えたところ、多くの人々が驚いたということが今日の福音書に書かれています。

 

ここでのキーワードは「驚くἐκπλήσσω(2節)と「つまづくσκανδαλίζω(3節)、また日本語では同じ「驚く」ですが原文では別の言葉である6節の「驚くθαυμάζωの3つです。

 

今朝はそれらについて考察することにいたします。

 

 

驚くἐκπλήσσω

 これはἐκ(外へ)とπλήσσω(打つ)の合成語で、「(思わぬことに出会って)意識を外に出す」つまり「魂消る」「肝を潰す」などの意味となります(雨宮慧『主日の福音(B年)』p.211)

 

『ギリシア語新約聖書釈義事典I』によると(非常に)驚く、圧倒される、度を失う、感動する、心を打たれるなどの意味があり、(p.480)、(非常に)驚くという意味で使われているのか、感動するという意味で使われているのは文脈次第ということになります。

 

この言葉は新約聖書においては受動態で表され、イエスの教えまたは行為に対する人々の反応に関して用いられています(同上)

 

今朝の箇所の場合はイエスの会堂での様子を見た人々が「魂消た」のか「感動した」のか、その場面(2節)だけからは分かりにくいですが、2節後半以降を読むとやはり前者になるでしょう。

 

 

つまづくσκανδαλίζω

 この言葉の名詞形であるσκάνδαλονは七十人訳聖書では「罠」を意味するヘブライ語מוקֵשׁギリシア語訳として使われています。

 

今日の福音朗読箇所のテーマは故郷の人々をσκανδαλίζωしたもの、彼らが嵌ったσκάνδαλονとは何であったかということになります。

 

 

驚くθαυμάζω

 6節には日本語では同じ「驚く」という訳になっていますが、原文ではθαυμάζωという別の言葉が使われています。

 

この言葉には不思議に思う、驚く、驚嘆する、感嘆する、不審に思う、媚びへつらうなどポジティブ、ネガティブ両方の意味がありますが(『ギリシア語新約聖書釈義事典II』p.175)、語源的には「見る」を意味する θεάομαιと繋がることからネガティブな意味では「目を疑う」ということになります。

 

イエスは故郷では「ごくわずかの病人に手をおいて癒やしただけで、その他には奇跡を行うことが出来なかった」(5節)と書かれています。

 

これはイエスが奇跡を起こす力を一時的にせよ失ったということを意味していているのではありません。「イエスの奇跡は人神との対話に招く徴であって、見世物ではない。神に心を閉じた者には奇跡も無意味である。イエスはそのような者たちを通り過ぎた」(雨宮慧『主日の福音(B年)』pp.214〜215)のです。