【中心聖句】

彼らが聞き入れようと、また、反逆の家なのだから拒もうとも、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう。(5節)

 

エゼキエル書1章から3章15節までには冒頭の見出しにあるように「エゼキエルの召命」が書かれていますs.

 

エゼキエルが召命を受けた日付は「ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日」(1章2節)であり、場所は「カルデアの地ケバル川の河畔」(同3節)でした。つまり彼は「バビロン捕囚」期間に彼の地で召命を受けたことになります。

 

2章1節には主が彼に「人の子 בֶּן־אָדָם֙ 」と語りかけたとあります。この言葉は3節でも繰り返されますが、「人の子」という言葉は新約聖書でも頻繁に出て来ます。

 

ただし、新約聖書でイエスが 「人の子 ὁ υἱὸς τοῦ ἀνθρώπου」という時には自分のことを指しているのに対し、エゼキエル書での「人の子 בֶּן־אָדָם֙ 」「神が預言者エゼキエルに繰り返し呼びかける際の表現」(『岩波キリスト教辞典』p.937)です。

 

神がエゼキエルに語り始めた時、霊が彼の中に入り、彼を立たせました(2章2節。)神の霊が彼を「耳を傾ける者」、自立し神の使命を担う者へと変えたのです。(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.202)

 

エゼキエルが遣わされた先で待っているのは「神に逆らった反逆の民」(3節)であり、「恥知らずで強情な人々」(4節)でした。

 

神はエゼキエルに対し、そのような人々に「主なる神はこう言われる כֹּ֥ה אָמַ֖ר אֲדֹנָ֥י יְהוִֹֽה׃」と言って神の言葉を取り次ぐように命じたのです。

 

「預言者は自分の故郷では決して敬われないものだ」(ヨハネによる福音書4章44節)という有名なイエスの言葉がありますが、

エゼキエルが同胞つまりイスラエルの民に容易には受け入れられないことは神にとっては織り込み済みでした。

 

だからこそ、今日の朗読箇所の直後で神はエゼキエル「彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない」(6節後半〜7節前半)と命ずるのです。