【中心聖句】
主であるわたしがこれを語り、実行する(24節)
旧約聖書エゼキエル書の冒頭を読むと、「ヨヤキン王が捕囚となって第五年」、 「主の言葉」と「主の御手」が「祭司ブジの子エゼキエル」に臨んだと書かれています(1章1〜3節)。つまり、エゼキエルは南ユダ王国の第一回バビロン捕囚の際に預言者としての召命を受けたということが分かります。
今日の旧約聖書朗読箇所では捕囚によってバビロンに連れ去られたダビデ王朝がエルサレムで再興することが預言されています(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.187)
22節には「高いレバノン杉の柔らかい若枝を折って、高くそびえる山の上に移し変える」という神の言葉が書かれています。
中東というとどうしても私たちはアラビアの砂漠やシナイ半島の荒涼たる風景を思い出してしまいますが、レバノンやシリアではかつて杉が生い茂り、建物や船の建材として広く用いられていました。例えば、列王記上にはソロモン王がエルサレムの神殿と宮殿の建設にレバノン杉を用いたことが書かれています(5章15節以下)
レバノン杉の若枝יוֹנֶקֶתの柔らかい部分רַךְが高い山に移し植えられ、成長するとうっそうとした大きな杉の木となり、そこにすべての鳥たちが住むようになる、と23節にあります。
預言書において若枝יוֹנֶקֶתはメシア王を表す隠喩となっています。大きく成長したレバノン杉の下に「翼のあるものすべて」が集まってくるように(23節)、再興なったダビデ王朝のエルサレムにすべての異邦人までもが集まって来ます(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.188)
そして「すべての木々」が「生き生きとした木を枯らし、枯れた木を茂らせる」主の力を知るように(24節)、すべての民は南ユダ王国に裁きを下した主が再びダビデ王朝を興すのを知ることになります。
こうして、裁きとは実は主の慈しみを知るようにとの招きであるということになるのです(雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』p.188)
<参考>